僕も愚かなバーニッシュだから
プロメアを見た
ちなみに3回見た
本当はもっと見たかったし、円盤も買うつもりだ
それは、自分がプロメアに非常に満足させられたという事実の証左だろう
一方で、未だにどこかプロメアに対しても不完全燃焼な部分がある
もちろん映画の内容にケチを付けたいわけではないし、まして作品の価値を貶めようとする意志は毛頭ない
ただ、ある満足のできる映画の中で不完全燃焼な部分があるとしたら、それは自分自身の感性に深く関わるものであるはずで、それを掘り下げてみたいと思うだけだ
で、何が不満足なのか
結論から書く
僕はリオになりすぎたために、リオを受け入れられなかった
これが最も端的な表現だと思う
どういうことか
いまさらあらすじを書こうとも思わないが、整理も兼ねて簡単に見ていこう
プロメアは二人の主人公がいる
その片方がリオで、もう片方がガロ
映画の中盤までは、テロリストとして仲間のために奮闘するリオと、テロリストの撒き散らす被害を収拾するレスキュー隊であるガロの両視点が並行して物語が進んでいく
基本的にリオの物語は悲惨で、破滅の予兆を感じさせる復讐劇だ
一方でガロの物語も、はじめこそ栄光あるものだったのが、正義の心とガロの理性・そして現実との間で歯車が狂っていく
そして中盤、リオが敵の大ボス相手に覚醒して復讐の鬼となるわけだが、そこでガロが水をさしていろいろあり和解、共に大団円に突き進むという筋書きに移っていく
ここで、リオとガロのそれぞれに割り振られた「立ち位置」とでも言うものを考えてみたい
リオは、というかバーニッシュは、これは口にだすのも憚れるくらいに明らかなことだが、社会的なマイノリティであって、虐げられ、見捨てられていく存在だ
リオの「立ち位置」は文明社会の外側であって、それは多くの視聴者にとっても異質な位置となる
一方でガロは社会の側に居る
ガロはいわば公務員であって、おまけにコネ就職であり、そして勲章という社会的評価を胸にぶら下げている男だ
そのガロが少しずつマイノリティの意識と現実に触れ、自分の「立ち位置」が急激に空虚なものだと実感していくという構造となる
ようするに二人の立ち位置は教科書通りの対比構造の上にある
ちなみにこの物語の主人公は、おそらくガロだ
それは単に最初に出てきたからというわけではなく、ガロは視聴者の大半の感情移入先として用意されている(と思う)からだ
細々と説明するまでもなく、プロメアを視聴する日本人の多くはガロのいるような、プロメポリスのような都市のほうが馴染み深いはずだ
洞窟や高速道路の廃墟に住んでいるという人はあまり見られないと思うし
そういうわけなので物語の進行も、リオの方は好き勝手に動くが、ガロの方はバーニッシュという「未知の世界」に触れていくような構図となる
ガロの経験は、イコール視聴者の経験となり、ここにおいてガロは(感情移入の第一対象としての)主人公だろうと僕は勝手に考えている
話を最初に戻そう
僕はリオになりすぎたために、リオを受け入れられなかった
つまり、これまで長々とガロが主人公である理由を説明しておきながら、僕の感情移入先はどうしようもなくリオだったわけだ
べつに僕は逮捕された経験があるわけでも人体実験の対象になっているわけでもない(たぶん)
それでも僕は、自分自身が(実際にどうであるかはまた別として)マイノリティであるという自覚がある
それはずっと昔からあるもので、だからリオのような存在には敏感になってしまう
もっと正確に言うなら、僕はどうしようもなくバーニッシュという種族に共鳴してしまった
リオは、物語的には僕の感情移入の対象であり、そしてバーニッシュと共鳴した僕にとっては、ゲーラやメイスたちにとってのリオ像と同じくあれは英雄だった
だから、Superflyの「覚醒」をバックにリオが暴れ狂うシーンは最高だった
単に物語上の第一のクライマックスであるという以上に、僕にとっては、リオが僕の中にあるマイノリティとしての、バーニッシュとしてのコンプレックスを爆発させてくれた感じがしたからだ
あえて書く
きっと僕は、あそこでリオに死んでほしかったんだ
リオのやっていることは(劇中でも明言されるが)正しくないことだ
関係ない人を巻き込む、街をめちゃくちゃにする、いけないことだ
それでもやらずにはいられない、それが復讐というものだろう
「バーニッシュはむやみに人を殺さない」
これはバーニッシュたちが、マイノリティたちが、傷つけられる痛みを知っているから発せられる言葉だ
僕自身もあまりに他者を傷つけないよう慎重に生きてきた
それでも、どうしても、この胸の中にある不平等感と怒りを爆発させたくなるという感情はどこかにある
それをリオは代わりにしてくれている
だから僕はいつもあのシーンで、打ち震えて泣いてしまう
とはいえ自分の満足のために振る舞えば、あとに残るのは罰の時間であり、だからこそリオは死んでほしかった
それか、クレイを殺してバーニッシュによる世界を作ってほしかった
それが責任というもののような気がしてしまう
しかし実際には、リオは死なない
ガロという理解者が手を差し伸べることで凶行を止めることができる
そしてプロメアのない、バーニッシュのいない、イコールマイノリティもマジョリティもなくなった世界を作り上げる
あまりにもそれは理想的な唄に聞こえてしまう自分がいた
現実にもガロのような存在はあるが、しかしバーニッシュ(マイノリティ)という概念そのものを壊すのは不可能だ
あるいは映画としては、いいのかもしれない
理想を表現することは悪いことではないし、それは視聴者に気持ちの良い経験を与える
けれどそのときに、確かにぼくらの側にあった、僕らの物語であったバーニッシュの物語は、マジョリティとも融合して理想郷に変化していく
これはただの僻みだろうか
三度目の映画を見終えたとき、言うなれば僕は取り残されたバーニッシュのような気分になっていた
リオも、ゲーラも、クレイも、EDではもはやバーニッシュではない
けれどスクリーンの前の僕はまだバーニッシュのままだ
こんなことなら、リオは僕らのために殉死してくれればよかったと、僕らのための心地いい爆発を起こしてくれればよかったのだと思ってしまう僕は酷いやつなんだろうか
僕はリオになりすぎた
どうしようもなくバーニッシュで、リオに深く感情移入してしまった
だからこそ、覚醒後のリオの行動をまだ受け入れられていない
それは経験値の不足からだろうか
答えは未だにでていないけれど、とりあえず円盤は買おうと思う
追記
でも責任を取るということは、やっぱり殉死にはないのかもしれない
リオのやったことは、あれは本当に真っ当な責任のとり方なんだろう
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?