「おもしろかった」という悪

世の中に「おもしろい」が嫌いな人はいない

というのはただの言葉遊びで、本質的に「おもしろい」状態は好意を内在している(あるいは好意に内在されている)感覚だから、もし嫌いになったらそれは「おもしろくない」ものになってしまう。原理的に「おもしろい」ものを嫌うことはできない

世間一般が「おもしろい」というものを嫌うことはできるけどね(逆張りオタク、ぼくのことです)

ただしそれは他者の感覚だの感性を否定しただけなので「おもしろい」を嫌ったことにはならない

しかし、小説に限らずものを創造する立場の人間にとっては状況が一変する

「おもしろい」は敵だ

あいつらは「本なんて読んでないで外で遊びなさい!」って怒鳴る母親よりも敵なんだ

誤解がないように断っておくけど「おもしろい」ものが敵なんじゃないし、そういうのを作れた瞬間というのは創作の醍醐味に違いない

問題は「おもしろい」という感覚が、創作を消費する過程においてかなりのカロリーを要するものだということだ

「おもしろい」感覚は、本質的で本能的な喜びである分、その他の微細な心の動きが生じる余地を殺すことがある

例えばある本を読んでいる時、そこに記されたさまざまな言葉にぼくらの心は揺れ動かされ、ニューロンは明滅し、様々な考えが脳裏をめぐる(よね? そんなことない?)

そして思うわけだ「おもしろい!」って

それが終わりだ

そのまま一息に読み終え、本を閉じる時に、あれほど様々に感じたはずの事柄は「おもしろかった」という感想に集約されてしまっている

誰かから「その本、どうだった?」と尋ねられても「おもしろかったよ」という言葉がまっさきに口をついて出る

これが「おもしろい」の恐ろしさなんです

もちろん本の内容について根掘り葉掘り聞かれたり、仔細を思い出そうとすれば、「おもしろい」を因数分解していって細かな数を取り出していくことは可能だ

けれどそれはかなり意識的な作業で、ぶっちゃけめんどくさい

それでも本ならメモを取りながら読めばいいかもしれないが、残念ながら「おもしろい」はあらゆる体験について回るし、そのどれほどでメモを取ったりできるだろうか

より突き詰めた話をすれば、このことは「抽象化」の弱点の一つだ

抽象化は人間にとって固有の能力とされ、チンパンジーなんかもできはするが、著しく精度が低いらしい

実際にこれはすこぶる便利な能力で、こうして文字が読めるのも抽象的表現が理解できるおかげである

ただ、どんなに便利なものも万能ではない

抽象化するということは、ある情報の解像度を下げるということだ(そして、そういった行為が「理解する」とよばれる活動の一つになる)

当然の帰結として情報の精度は落ちるし、時には不可逆的な変化となることもある(概ねは可逆的だが、さっきも言ったけどめんどくさい)

と、散々に語っては見たけれど、この現象にはたぶん対策なんて存在しない

様々な感動を「おもしろい」に還元すること、それを否定するためには「おもしろくない」ものを作るしかないわけだが、そんなことをしたら本末転倒だ(そうまでして作ってもけっきょく「おもしろくない」に還元されてるし)

まあ自分の作品が「おもしろい」と言われるならそれは構わないし、ていうか泣いて喜ぶ

ただ、いろんな名作が「おもしろい」の一言に抽象化されて語られる光景、そういうものに出くわす時になんともやるせない気分になることもあるってだけだ

まあ、おまえはまずおもしろいもの書けってね

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?