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結局私はフェミニストになれない

私は生まれてからずっと恋人がいたことはない。でも今の生活には満足してるし、本当に楽しい。でもやっぱり焦る。だってもしこのまま社会人になったらナニかが欠陥しているヤバい奴と思われるかもしれないから。でもその不安って恋人がいないことじゃなくて第三者から客観視された私のイメージを崩したくないからなのかもしれない。私は至って冷静沈着だし、ある程度の社交性とひょうきんさはもちあわせているし、自分の趣味もある比較的自律した人。そう思われたいしそんな風に思われている(仮)自分が好き。私は自己愛クソデカ人間なのかもしれない。
私は恋人はいないといっても男友だちはわりといると思うし、異性と2人で出かける時も同性の人と出かける時も特別何も変わらない。私は基本人と平等に接したい。もちろん、時と場合によって自分の立ち回りを変えたり、言動・話題を気にかけたりはする。でも、それは"男だから"とか"女だから"という理由ではない。"その人(たち)"だから。セクシュアル的要素は時に必要だが、私は人を大きな括りで観たくない。だってその人はその人だから。私も俗に言われているお喋りでうるさい"女らしい"ところもあるし、あまり細かいことを気にしないような"男らしい"ところもある。なんなら異性同性どちらの友人にも"男らしい"ねと言われたことがあるくらい。私は私だし他人も他人だ。もしかしたらこれも原因の一つかもしれない、人を特別扱い?というか異性に対して色目を使ったりだとか可愛げをアピールしたりできない。そんな下心をもつ自分に吐き気がする。
私は今までちゃんと好きだった人は1人だ。その人とは今も親友だと思う。何でも話せる気の置けない人だ。音楽の趣味が合うから定期的に一緒にライブに行ったりする。ある人からしたらその感情をずっっっと引きずってる奴と思われるかもしれない。まあそれはそれでいい。ちゃんと言っておくが、私は彼に対してもうとっくに恋愛感情はない。
中学生の私は相手に自分の存在に気づいてもらおうと必死だった。もちろんキッカケと共通点が多くて仲良くなったのだが、それ以上に私を知ってもらいたいという気持ちが強かった。結局私は好意に気づかれていたのにその先の一歩が進めなかった。この人と自分がその先に進んだら周りの人にどう思われるのか、そもそも相手にキープされているんじゃないか。色々思って2人での遊びに誘ってくれたのにずっと平行線だった。そもそも恋愛的好意以上にその人が人として好きで関係性を終わりにしたくなかった。これがデカい。
こんなこともあったり、高校時代もそんなような感じで、異性に2人での遊びに誘われていても男女なモードにならない、むしろ私がさせないのかもしれない。デートの基準がわからない。私に恋愛的に好意をもってくれているのか、人として好意をもってくれているのかわからない。私は恋をすることが怖いのだろうか。自分に自信がないのだろうか。
今まで同性(女)を恋愛的に付き合いたいかもと思ったことがある人は2人くらいいる。私はバイセクシャルなのかもって思ってた時期もあった。
でもそれはただ下心をもって異性に接する人間を嫌悪する反抗心がための思い込みだったのかもしれない。
私はきっと拗らせた自己陶酔人間なんだと思う。こんな男女平等みたいなフェミニストぶった発言をしてたって、翻って"男として" "女として"を気にしているのかもしれない。私は結局ただ恋愛がヘタクソな女だ。

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