手応えのない営みから

「頑張らなくていい」という言葉がある。

その「頑張る」って、自分の中でなんだろう?ってこのところずっと考えていた。

で、私の中での「頑張る」というのは「手応え」だと思った。

「頑張らない」=「何もしない」ではなくて。

「頑張らない」=「手応えがない」感じ。

ずっと、クラゲ体操や、ソフトタッチでセルフケアをやり続けていて、

捻挫が治ってもできなくなっていた正座が、できるようになっているという違和感にびっくりした。あれ?足に違和感なくできている!!!みたいな。それがかえって違和感に感じたというか。

いつの間にか、気がつくとできるようになっている。何か特別なことをしたわけでなくて、手応えのない日々の営みの積み重ねが、気がつくと、自分の進化につながっている感じ。

マッサージもそうで、今までは、ゴリゴリ揉んでもらうことが気持ちよくて好きだったのだけど、触れるか触れないかくらいのソフトタッチでケアをするようになって、自分の身体の細部を感じられるようになったり、皮膚のつながりで、全身が緩んでいく感覚を味わえるようになったり。

逆に、ゴリゴリのマッサージがしんどくなることもあったり←今はこれにも身体が対応できるようになってきた。施術する側の腕もあるけど、受け手側のあり方で、マッサージって効果がめちゃめちゃ変わることも実感している。

手応えのないことを続けていて、感覚もより繊細になってきた気がする。

私はずっと、人の話を聞くことで、自分の心を見つめるという自己修養法をしてきたのだけど・・・

思考を外して人の話を音で聞くということで、感覚を磨いてきた感じだった。

職場でも「あなたは、私が1話たら8か9は理解してくれる」と言われたことがあったのだけど

相手が1話したことで10理解してたなと感じることも最近はある。補足説明してくれた部分が、1聞いた時点で「そうだよね」と思えている不思議というか。全ての話がそう聞こえるわけではないけど、感覚が鋭くなったよなと感じる。

それに、相手の連絡先を思い出そうとしていたら、その方が私に電話をしてくれていたということもあった。その時は、私のスマホの不具合で、全く着信音が鳴らなかったのだけど、何か感じるものはあったのだろうなと思う。

自分がより深く物事を感じたり、受け取れたりできるようになってきた。

何かを頑張るではなく、手応えのない営みから、どんどん感覚が開いている感じ。感覚が開くことにも手応えはない。「あ!こういうことを感じている」と認識して初めて気がつく感じ。

それが今は心地よい。


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