見出し画像

身体と対話するようになって思うこと(保育に対して)

身体のことを学び出して、よくやるようになってきたこと。

それは、身体を動かす時、

・どこから動いていて、動かすごとに、その力がどこまで広がっていくかを追うこと
・身体の力みが出ないスピード、動かし方で動くこと

手上げる時、起点はどこかなぁ、どこが支えているかなぁ、その起点は変化していくかなぁなどと、追いながら感じていたり、
膝や腰が痛むときは、どの速さなら痛くないかなぁ、どの向きなら痛くないかなぁって観察しながら動かしたりしている。

自分がそういうことをしながら、泥んこ遊びをして、保育の現場の0〜2才の子どもたちを見て思うこと。

これ、子どもたちがやってるなぁ。

0歳さんは、身体を動かすことで、自分の身体を見つけていく。動かす感覚を自分の中で育んでいる。

1〜2歳児さんは、特に、水たまり、どろんこで遊ぶとき、感触遊びと言われるものをするとき。

触れて、感触を味わうということも、言葉にすると

触った感じどんなかなぁ、
手や指を動かすとき、自分の感覚はどんなかなぁ、
対象物はどんな風に変わるなぁ、
こんなふうに動かすとこんな変化があるなぁ、わぁ面白い、
じゃあ、こう動かしたらどうだろう、わぁ気持ち悪い、
じゃあこうしたら・・・

自分の感覚も、対象物もどんどん変化するし、それを、自分の中で楽しんでいるのだろうなぁ。

これ、実際自分がやってみて思ったのだけど、飽きない。

同じ変化ってないから。あれ?さっきと違う。じゃあこれは?をたくさんやっているのだと思った。

子どもが夢中になるものって、自分の働きかけで変化がちゃんとあるものな気がしていて、自分の働きかけでの変化が少ない遊びは続かないようにも見える。

遊びは、自分との対話であって、そこがしっかり自分の中で育めるから、他者が関わってくる時に心地よい関わり方ができてくる。

まずは自分が満足するまで遊ぶ、それから友達関係ができていく。
これは、新卒で働いた園の園長先生がよく仰っていた。

おもちゃの貸し借りも、大人はすぐに、相手に貸してあげること、一緒に遊ぶことを要求してしまうけれど、子どもが抵抗するのは当たり前で・・・。
せっかくの楽しい遊びを、遊んでいる最中、遊び切ってないのに他者に譲れって、嫌に決まってる。
だから、一人一人が十分に遊べるように、遊びは準備すること。
一人で遊んでいるときは見守ること。

遊びは生きる土台を作るっていう。

この自分との対話、育みは、生きる土台を作っていると思う。

ただ、最近の自分は「土台」という一言で片付けてしまうのがとても惜しい気がして、こうやって言語化してみた。

土台って何?みたいな。

何をしたら土台になるの?って。

子どもの頃の自分との関係づくり。それがしっかりできる環境を作ること、それが保育の現場なじゃないのかなぁって思う。



頂いたサポートは、今後の活動費にさせていただきます。