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あなたが書くべきは「テキスト」であって「日記」ではないという話。あるいは毎日書くという呪いについて。

私はライターのオンラインコミュニティー「sentence」に入会している。

といっても、なにか特別な資格があるわけでもなくて、月2000円払って気が向いたときに自分の書いたものを報告したり、適当にどうでもいいことを書き飛ばしたり、柄にもなく上から目線で批評をしていたりする。ポジションとしてはどの飲み屋にいるうぜぇ常連のおっさんみたいなもんだ。

sentenceのコミュニティー活動は主にSlackで行われているのだけど、その中で書くことに関するお悩みみたいなことの共有もしている。で、先日、「コンスタンスに書くことが出来ないのだけど、書き続けるための工夫を教えてください」という質問があって、運営の人が「この手の書き続けることについてはくらげさんが得意なのでは」と水を向けてきたので色々書き飛ばしたのだけど、結構長くなってしまったのでこちらで私論をまとめてみる。

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まず、多くの人が勘違いしていると思うのだけど、ある程度まとまったものを書くというものは自然にできるものではなくて、才能だとか努力だとかスキルだとか、そういうたぐいのものだ。

なんの訓練もしていない人がいきなり1日10キロ走るのが無理なように、文章だっていきなり書けるようにはならない。だから、うまくなろうとすれば「練習」として定期的に書く必要はある。

コンスタントに書くというのは文章がうまくなる「前提」であって、文章を書く「結果」ではないのだ。この因果関係を間違えると「毎日書くこと」が目的になって、「書くことの意味」がおざなりになることだってある。

日本は随分と「日記」が神聖視されていて、学校でも「毎日日記を書きなさい」と宿題になったりしているのだけど、「日記を書くのが好きで好きで仕方がない」という人にリアルで会ったことがない。

むしろ「日記を書くなんて無理ですよね」って人ばっかりで、「毎日何かしら書いてますよ」というとそれだけで尊敬の目で見られたりする。

でも、「毎日何を書いているか」まで尋ねてくる人はそう多くはない。そこに因果関係の逆転が生じているのだ。

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スキルとして書くなら「毎日書いたほうがいい」のは間違いないのだけども、「毎日書かないから自分は文章を書くには向いてない」という勘違いをしてしまう人が出てくるのが日記偏重の弊害だと思う。

書くなんぞ、「寝る・食う」と同じように「寝たいときに寝て食いたいときに食う」のが一番ラクにできるもんだし、そもそも仕事でもないのに「まとまったことを書く」ことの目的は「楽しい」だとか「嬉しい」だとか「書くことができる自分はすげーだろー」とか自己顕示を満たすとか、そういう俗物的なものなはずだ。

「毎日書かかなければ」という思い込みはこういう「俗物的な欲求」をどこか無視して、書くことをなにかストイックなものに変えてしまうのではないか。書くとはどこまでも俗悪な活動でも構いやしない。

だから、まずは「毎日書こう」という呪いから自由になることが、逆説的に文章を毎日書く秘訣ではないか。

毎日書かなくていい、ということから自由になって、それでも「書こう」と感じるなら、おめでとう、あなたは生来モノを書くのが好きな人である。「書きたくねぇなぁ」と気づいたあなたは、別な方法で楽しみを選んでもいいし、それでも書き続ける意味をもっと深く考えてみればいい。

いずれにせよ、あなたが「書く」ことの意味は「毎日書くかどうか」ではない。「何を書いたか」であり、「読者の心をどう揺さぶったか」であり、「そのことを書いたことであなたはどう変わったか?」ということである。あなたがまことに書くべきものは、日記ではない。「自他の心に残るテキスト」なのである。

書くことを、もっと貶しめて、書くことを、もっと自由にしよう。書くことの意味を求めず、書くものの意味を求めよう。書くことを飾らず、書くことで裸になろう。その先に、あなたがまことに書くべきものが見つかるはずだ。

では、私はなぜ書くのか?それは、書くこと以外はどうしようもなく無能だからだ。書くことが唯一、自分を活かす術だからだ。書くことは、生きることだ。どこまでも自分のためだ。それでいいし、そこからはじめるしかない業を背負って、書いていく。俗悪であるために、書いていく。

あなたが書くべきものは、なんだろうか。その答えが見つかることを、私はどこまでも真摯に祈っている。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。