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妻がマスクを洗うとき「救済のギブ・アンド・テイク」のサイクルが回りだすってお話 #キナリ杯

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「マスクを洗っておいたから!」と妻が言った。部屋の隅の室内干しスペースには「安全第一」と書かれている大きなマスクが洗われてシナシナになってぶら下がっている。

このマスクを買ってきたときは妻に「あんた馬鹿なの!?」と驚かれたんだけど、この布マスクを買った1ヶ月前は近所の薬局やドンキホーテにもほとんどマスクがなくて、あっても身長185㎝という巨体の持ち主の私にとっては小さいものだけだった。必死に探してどうにか問題なく装着できそうなのがこの「安全第一」のマスクというわけだ。

ここ数日で一気にマスクの供給量が上がってきたのか、あちこちでまともなマスクを売っているのだけど、サイズの問題でこのマスクは当面愛用しそうだ。

ところで、このマスクは当たり前だけど洗わなくてはいけない。私は衛生概念があまり発達しておらず、潔癖症の人と同居したらおそらく私は数日で除菌されつくして消滅するはずだ。だからマスクを洗濯しろと言われてもどう洗っていいのかわからない。ググる気力すら起きやしない。

そんな私と同居している妻は当然潔癖症ではないし、私と同じくどちらかといえばズボラな方だ。でも、介護福祉士の資格を持っていて、心身を壊すまでは介護施設で勤務していたので衛生面の知識はかなりある。なんなら施設でなんども集団感染の危機を乗り越えてきた猛者でもあるそうだ。だから、マスクの洗濯は妻の仕事になっているのだ。

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そんな妻だけども、今は殆ど引きこもり生活だ。もともと結構重めの発達障害があることに加えて、さっきも書いたけど介護職での無理がたたって精神的にも肉体的にも病気を抱えてしまった。一度辞職して訓練を経て障害者雇用で名刺を作る工場で働いていたんだけど、次は子供の頃に収まったはずのてんかんが再発して再び辞職に追い込まれた。

今はかなり強めのてんかんの薬や精神薬、睡眠薬、痛み止めなどを大量に飲んでいて、その副作用もあって1日の大半は寝込んでいる生活を続けている。なので、コロナウイルスのパンデミックがあっても生活はあまり変わらない。時折聞こえてくる「非常事態宣言が発令中です」という緊急無線がとても怖くて不安になることと、私のマスクを洗うことが増えたくらいだ。

もともと生活に必要な買い物や食事作りなどの家事の大半は私がやっているし、生活費も大半は私の収入から出している。正直、かなり疲れる生活をしている。辛いときはどうしてこの妻と結婚したんだろう、と思い悩むこともある。だけでも、妻が洗ってくれたマスクをみると、それだけでそういう気持ちは吹き飛ぶから私も安い人間だと思う。だけども、それが偽らざる本音だ。

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この世界の基本的にはギブ・アンド・テイクで成り立っていて、複雑に見える経済の仕組みだって分解してしまえば「同じ量のものを提供しあう」という単純な原理によって動いている。それを引いて障害者とか病人とかにも「助けてもらいたければ同じくらいなにかを提供しろ、それができなければ助けてもらう資格はない」という理屈を持ち出す人がいる。一見もっともらしさがあるけど、結構無理がある話だ。

例えば、世界は今、新型コロナウイルスの大流行という未曾有の緊急事態なわけだけど、コロナウイルスに対する手立てというのは私達一般人にできることは殆どない。医療関係者とか政治家とか行政の人とか、そういう人たちは尻に火がついたような騒ぎで過労死寸前だったり自分も感染する危機をおかして働いてくれているけど、そのような人たちにそれに見合った「提供」ができているかというと、ほとんどの人は不可能なはずだ。

コロナウイルスに関して殆どの人類は無力で、一部のスキルを持っていたり立場がある人達の活躍でどうにか守られているに過ぎない。私達は今だれもが「コロナウイルスから必死に守ってもらっている」最中で、この無力さは一般社会における「弱者」と同じもののはずだ。だから、どうやったって「ギブ・アンド・テイク」が成り立たないことだって多いのだ。

かくいう私も結構重度の聴覚障害があって、発達障害の一種であるADHDがあって、精神的にも躁うつ病という診断がある。それだけで見れば十分に「弱者」であるし、実際に様々な医療リソースや福祉的なリソースをあれこれ頂いてなんとか生き永らえている。税収だけで見たら間違いなく国は大赤字だ。

だけども、私自身が何もできていないかというとそうでもなく、今にも死にそうな妻を背負って生活をしているし、仕事もまぁ色んな人を助けることにつながっているはずだ。あと、趣味と実益を兼ねて続けている物書き仕事で「文章を読んで救われました」とか「励まされました」とお礼を言われることも無きにしもあらずだ。そのたびにすみませんこんな稚拙な文章ですみません、と土下座もしたくなるけど、私の文章には人に何かを与えられるくらいには力を持っていると、という自覚はしてきた。そういうステージにおいては一般的な意味では「重複障害者」で「弱者」で「国に対して大損害を出している」私でも「無力ではない」という確信を持っている。(この確信を持つまで本当に紆余曲折あったのだけど、このことについては今執筆中の本に詳しく書く予定だ)

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そもそも、人を「救う」ってなんなんだろうな、とよく考える。医療は怪我や病気をしている人の命を助けるという意味で間違いなく「救う」ことなんだけど、教育だってうまい教育者は何人もの子供の人生を良き方向に導いて人生そのものを救っている。専業主婦も細やかに家族の世話をすることで健康的な生活を維持して救っていうるわけだし、妻だってマスクを洗うことで私がコロナウイルスにかかる確率を下げてくれているわけで、そこに「救い」は間違いなくある。人間、生きているだけでだいたい誰かを救っているのだ。

では、誰が何を救うか、となると、これはこれ!と断言できなくて、医師だって出会う患者を自分の意思でコントロールできるわけではないし、私だって妻と出会って結婚するには無数の偶然があった。(そもそも匿名掲示板の2chで出会って、Eテレで全国公開プロポーズをしている)

誰がどのタイミングで人を救うかなんて、誰にもわからない。だから、常に助けるー助けられるの間にギブ・アンド・テイクの均等は成り立たない。必要なのは「助けられるときに助ければいい」みたいな心構えじゃないだろうか。

今、必死でコロナウイルスとの戦いを第一線で引き受けている人たちのおかげで、日本でのコロナウイルスとの戦いはどうにか優勢に進んでいる。でも、経済状態は急激に落ち込んでいるし、色々危機的な状況にある人ではちきれそうだ。その危機的な状況にある人を助けられるのは、「助けられるスキルが有る人たち」だ。そのスキルがあるのはあなたかもしれないし、私かもしれない。もし、何か出来ることがあるとしたら全力で尽くそうと心すること。出来ることはないかと心を研ぎ澄ますこと。それが今私達が出来る「救い」ではないかと思うのだ。だから、皆さん、救っていきましょう。この社会を。

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アフターコロナ、みたいなある種の「前向きな言葉」ができているけど、基本的なことはこれからも、そしてこれからも変わらず「出来ることをする」「人を救う」ってことだけだなんだろう。その営み自体は地味で、コロナウイルスくらいで壊れたりはしないものだ。

少しずつ手足を動かして、少しずつ疲れて、そして日々の営みで疲れを回復させて、次の日を静かに迎えて、また少しずつ手足を動かす繰り返しで。

動かせる手足の量は決まっているし、疲れの具合も人それぞれだ。だから、マスク一つだけ洗って干すことしかできなくても、それは何一つ恥じることでもなく、それができない私にからすればすごく助かることだ。

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「ねぇ、高いところにマスクを干したから褒めて」と妻がいう。妻の身長は154cmで高身長の私からすれば子供のように小さい。それが必死に私が使いやすいように高めに置いてある物干し棒にはさぞ引っ掛けにくかっただろう。というわけで、ポンポンと頭をなでてやった。妻はちょっと嬉しそうに笑った。

「んじゃ、ちょっと頭を下げて」とまた妻がお願いするので、ちょこっと頭を下げる。妻がぽんぽんと私の頭をなでた。妻は「いつもありがとうね」と言った。私も少しだけ微笑んだ。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。