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一傍観者が「オリンピックの無観客開催の決定」に考えること。そして「日本が安全である」という妄想への肯定。

無観客開催が決定した

2021年7月8日夜、IOCや東京都などのトップ五者協議で一都三県におけるオリンピックの競技での無観客試合が決まった。

数ヶ月にわたって関係者の間で「どれだけの観客を入れるか」という議論が繰り広げたけどもオリンピック開催直前になり東京の感染再拡大が止まらず緊急事態宣言を発令することになり、有観客開催は夢の泡と消えた。オリンピック選手をはじめとして、大会関係者、ボランティアやチケットの購入済みの観客などの無数の人々が落胆したのは間違いないことだ。

それでも、国際的な公約となってしまったオリンピックをなんとか開催し、なおかつ日本国民の安全安心を守ろうとしたら無観客開催はギリギリの落とし所だったのだろう。これ以上の対策を取ろうとすれば大会自体を中止するしかない。

オリンピックのニュースが心を暗くする

私は、運動というものに全く興味がない人間だ。でも、もしもオリンピックを通常通りに開催されていれば、街中がオリンピック一色に染まり、さまざまなイベントがあっただろう。その中のイベントの一つくらいには参加してたかもしれないし、オリンピックの中継を見ていて純粋に日本を応援していたと思う。だけども、これは「スポーツの力を信じている」というわけではなく、イベントを楽しんでいるだけだ。その「イベントの楽しみ」がコロナの恐怖で上書きされた今、オリンピック関係のニュースは私の心をどんどん重く、暗くしていくばかりだ。

オリンピックの開催の是非については、いろいろな人々が、様々な理由で、様々なことを主張している。医者たちは人々の安全を守る立場からオリンピックに反対し、オリンピック関係者はオリンピックの有観客開催をぎりぎりまで目指そうとした。それぞれの専門家が自分の仕事を遂行するために、極限まで考えつめたことを発表しているのだ。

一方で、何の利害関係もない傍観者に過ぎないし、大した知識も持っていない私は、その意見の対立に立ちすくむ。「専門家一人ひとり」が主張する「事実」はおそらく「その立場」において間違いではない。だけども、私はもう子どもでもないので「専門家の正しさ」が「すべての正しさ」を代表しないことなんてとっくに知っているし、その裏には熾烈な利害関係の争いがあることもわかっている。それでも「専門家」の様々な言葉を聞くたびに、私の心は開催するべきなのか、中止するべきなのか、観客を入れるか入れてはいけないのかに迷い、一喜一憂を日々繰り返してしまうのだ。この一喜一憂がただでさえ少ない日常を生きるエネルギーを少しつづ奪っている感じすらある。それは私にとってはとても苦しいことだ。

究極の正しさなんて存在しない

「なんで今回のオリンピック開催が日本なんだろう。なんでこのタイミングで新型コロナウイルスが流行したんだろう」とここ1年ずっと考えている。だけども、その答えは未だに全くつかめていない。あえて言うならば「運が悪い」としか言いようがない。そしてその「運の悪さ」で日本国民の意見は真っ二つに分断されている。

ちょっと Twitter を開けばオリンピックに関するいざこざを目にするし、それを目にすることでストレスが高まってしまうし、嫌な気分はその日一日を支配することもある。だからあまりTwitterなどを見ないようにもしている。オリンピックがなかったら、ここまで国民の断絶も起きず、私が余計な心労を感じることもなかっただろう。そういうタラレバがますます重く感じる。

「究極に正しいことがある」なんて、特にオリンピックのような国際的なイベントでは存在しない。よく「オリンピックの対立軸」として「命と経済のどちらが大切か」というのが盛んに言われるのだけど、オリンピックを開催したら新型コロナウイルスがどうなるなんて誰にも答えることなんてできない。だから、安全を考えたら感染者が増えている今、オリンピックは中止した方が絶対に「命」は守れるはずだ。

だけども、「経済」が衰退すれば、それによって命が失われ人も当然出てくる。今回の決定で900億円分のチケット収入がなくなるという報道があったけども、この損失はだれが負担するのだろうか。税金からとなればその分割を食う「社会的弱者」は増えていくだろう。それに、オリンピック開催を見込んで設備や施設に投資した企業などはもはや涙も出ないだろう。これからの苦しみを考えてしまえばオリンピックは観客を入れて開催したほうが将来への希望をつなぐことができただろう。

「どっちでもいい」とも割り切れない

私は2年前から在宅勤務をしていて、特に用事がなければ外に出なくていい。昨年から運転するようになってからは電車に乗る機会もかなり減った。外で飲む習慣もないので生活の上で新型コロナウイルスに感染するリスクはとても低いはずだ。何かオリンピックに関わる仕事をしているわけでもないし、ボランティアでもなければ、観戦に行く予定もない。だからオリンピックの開催がどういうかたちであれ直接的な影響は小さい。だったら堂々とどっちでも良いと割り切る道もあるはずだ。でも、どちらが「より良いか」をジャッジする力もなけれ、どちらでもよい、と割り切る力も、また、ない。

このジャッジが出来ないのは、私が日本というものに帰属している意識が強く「この国が平和で安全で皆仲良くできたらいいのに」という素朴な幻想を未だにして切ることはできず、どこかに誰もが丸く収まる最適解があるんではないか、と祈らずにはいられないからだ。

オリンピックの恐怖と「日本は安全」という妄想

最近の日本人の意識が内向きになっていると批評されることが増えている。オリンピックの開催も「日本の安全」という言葉を棚上げにして、国民が「オリンピックのために日本がちょっと混乱してでも開催する」とする覚悟したならば、無観客試合どころか海外から大勢の観客を入れて開催できていたはずだ。そっちのほうが海外から日本の評価は高まっただろう。

実際、EURO 2020 をはじめとした海外の国際大会では観客を大勢入れて行れているし、国内の様々なスポーツの試合でも観客を入れている。オリンピックもある程度のリスクを覚悟するならば、有観客開催は決して無謀ではなかったはずだ。だけども、日本国民の大半はこのリスクを受けることができなかった。そして、私も海外から観客が入ってきたなら心穏やかではないかっただろう。

これには「日本は安全で海外は危ない」という妄想がどうしても抜けきれないことに大きな要因としてあると思う。自分の住んでいる「安心安全であるはずの場所」がオリンピックで破壊されるかもしれない、という恐怖は「日本が海外からどう見られるか」という「外からの目」を意識する余裕を完全に失わせてしまい、自分と身内を守ることに汲々としてしまうのだろう。この恐怖を解決する手段を私は持っていない。だだただ早くオリンピックが始まって無事に大きな混乱がなく終わることを祈るだけだ。

あと2週間ではじまる

あと2週間足らずでオリンピックが始まる。2週間後の私は果たしてどんな目でテレビを眺めているのだろうか。新聞を読んでいるのだろうか。

オリンピックが開催されている間、私は日々の生活を淡々とこなしていくだろう。もしかしたら、日本人が金メダルをとったことにちょっと喜ぶかもしれない。だけども、その喜びはとても苦いものを含んでいるに違いない。

この嵐が過ぎ去った後、日本に何が残るのだろうか。その残ったものを拾い上げて、この国は次のステージへ歩んでいけるだろうか。その残ったものの中に、私は何を学び、何を掴めるだろうか。なにもわからない今、割り切れない気持ちをここに書き記し、日常は進んでいく。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。