なぜ企業活動から「悲しい」は排除されるのか?

思う。
なぜ企業活動から「悲しい」が排除されるのか?ないことにされるのか?
悲しい、つらい、苦しい、さみしい、、、それらはあってはいけない、タブー、NG、出入り禁止、それはここには持ち込めない。

「悲しい」それはなにかとんでもないひどいものではない。
悲しいを感じられるからこそ、次はよりよくしよう、改善しようという行動につなげられる。
悲しいを感じられないから、なにもしない。なにもしないでいられることに苦しまなくて済む。過剰適応だよな。

悲しいを排除している環境。
悲しいが抑圧されるばかりに、悲しいを適切に表現できないばかりに、弱い者いじめ、陰口、悪口として噴出している。あるいは、体調不良や病気となって現れる。
悲しいを排除した結果、悲しいの暴走を生んでしまってるんだよな。

悲しいという感情の扱い方を知らない。
エモーショナル・リテラシーを学んでいない。
学ばなければ扱えないものがあるということを知らない、分からない。
考えられない、考えたくもない、考えたら余計悲しくなるだけだから、、、

僕もそうだった。
今はそうじゃない。考え続けたい。いっそう悲しくなったとしても。
ひどくふさぎこんでも、不安定になったとしても、今は受けとめてくれる人がいるから。

僕は自分の言動の前提にあるものを知りたい。

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