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音楽家であり続けること

音楽家は常識がない。
音大生はよくわからない。
社会不適合者。
アーティストは何を考えているのかわからない。
とよく聞いたり、無言の圧を感じることがあります。

わたしは音楽家ですが、一人の社会に属する人で、一人の人間です。
音楽家は一般常識がない、意味不明なことをする異端者と思われることがあるのですが、よくよく考えて根本を見ると、同じ人間です。
「音楽家だから」という言葉や「音大生だから」という言葉に違和感を感じるのは、我々音楽家が一人の人間で社会人であるということを、ふとした瞬間に忘れてしまうからではないでしょうか。

音楽高校、音楽大学に通って6年目。音楽家だけの世界にわたしは溶け込むことができず、もやもやとした気持ちを抱えていました。それは、全員が自分の音楽しか考えていない環境に何とも言えないモヤモヤがわたしの中にあったからです。
「音楽ができればそれで良い。」
「自分が演奏できれば他は何もいらない。知ることもしたくない。」
この純粋でまっすぐな想い。しかし、自らの世界を閉ざしているのではないでしょうか。このままではクラシック音楽は音楽家だけのもので、他に誰も入るスペースがなく、先細りの未来なのではないかと思います。
コンクールで1位をとる、技術を習得して鍛え上げる、音楽家同士で競い合って、己の音楽を磨く。音楽、音楽、音楽。
しかし、果たして「音楽」の本質を捉えているのか?と疑問に思いました。
音楽は音楽家と相手(聴衆)がいて成り立つものです。音楽家の自己満足だけでは音楽は成立しないはず、そしてクラシック音楽の分野は敷居が高いなど言われていることは我々音楽家も理解しているはずです。音楽家であり続けたいというのであれば、相手がずっと目の前にいることが前提です。その相手は必ずしも前に居続けてはくれない、そのことを考えたことがあるのかと投げかけたいのです。
そして、音楽は本来楽しむ娯楽の一部のはずです。相手に勝つための音楽ではなく、目の前にいる人に音楽を楽しんでもらう。届ける相手がいて成り立つということを見失っていないのか?シンプルだけれども、音楽家だけの世界にいると忘れてしまうことなのではないでしょうか。

「音楽家であり続ける。」
音楽家になりたいのではないのです。音楽家だと思った瞬間が音楽家で、この存在であり続けたいというのが願いです。
「音楽家である」ということにゴールはない、またそれぞれが描く音楽家像があるから、自分で考え続けるしかないのです。
それが音楽家であり続けること、そして音楽家でいる意味なのではないでしょうか。

音楽家であり続けることと、聴衆の耳を育てることはイコールで繋がるとわたしは思います。聴衆の存在がいなければ音楽家は存在できない、そして音楽家が新しい音楽を伝えるためには聴衆の耳が必要。お互いの存在があるから音楽の世界は成り立っている。このシンプルなことを我々音楽家は知っているのか、これをわたしは問いかけ続けたいと思います。

音楽家である前に一人の人間でありたい。
そして、その上でわたしは音楽家であり続けたいと願います。

何度も原稿を書いて消してを繰り返しました。
うまく言葉で表現できない、もどかしさがあります。
これからも向き合い続けて、言葉を重ねて想いを皆さんに伝えられたら良いなと思います。
もしかするとこの記事をわたしは消すかもしれません。
しかし、繰り返し言語化していくことでわたしが考える「音楽家」を創り上げていけたら良いなと思います。

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