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きざまれ、よみがえる、とおい記憶

ある時期から、特定の映像が自分の頭の中で流れることが増えた。

昔の夏休みの家族旅行にはテニスと海水浴が欠かせなかった。
中でも、海岸が綺麗で毎年人気な海水浴場に行くのは楽しみだった。地形の影響で少しの風でもかなり大きな波が立つため、サーファーも多く集まる。
水も砂浜も綺麗で、お気に入りの場所の一つだった。

比較的、海が好きだった私。
外遊びが好きで、小さい頃からせっせと毎日公園に通っていた子どもにとって海はかっこうの遊び場だったし、いつもとは違う非日常の風景は魅力的だった。
浮き輪で波乗りをするのは得意だったし、多少足がつかなくても特に怖がることもなかった。ちょっとなら泳げるし、絶対私は溺れたりしないという、根拠のない自信があった。
波打ち際に立った時に砂が波に削られていく感覚への恐怖や、海に対する漠然とした恐怖心はあまりなく、浜辺で泣いている他の子どもに対して「なんでそんなに怖がるのだろう?」と思ってしまうようなタイプだった。

もういつだか忘れてしまったけれど、そんな私も一度だけ海でひっくり返った経験がある。
浮き輪に捕まって、父と少し沖の方まで行った。
だんだんと海水の温度が変わってきたねえと父と話しながら海の塩辛さとジリジリ照りつけてくる日差しを楽しんでいた。
そんな時少し向こうから、海面が大きく盛り上がるのが見えた。
私が浮いていた場所は、波ができる場所だった。つまり、風で海面が迫り上がる場所で、岸に近づけば少し大きくなり海面が巻き込まれるようにして浜へと波が到達し広がっていく、そんな波の行先を眺めていた。
波の力や潮の力は人間が想像しているより遥に強いもの。波ができる最初のポイントにいた方が巻き込まれていく心配はない、そう思っていた。
しかしながら、海という自然を相手に人間は敵わない。波ができるポイントだから大丈夫と思っていたところに正面から、すでに白波を立てた大きな壁が迫りきていた。
通過を試みたのも少し遅く、まんまと波にひっくり返された私。浮き輪にしっかり捕まっていたこともあって、綺麗に逆さまに。
逆さまになって顔が海面の中にあった時、何を思ったのか私は目を開けていた。
ちょっと波に揉まれていたからちょっとしたパニックでもあったのだと思うけれど、水面へと差し込む光と透き通るような青の水の色、一瞬の水の中の静寂。
こふ、と吐き出した空気の泡が水面に向かって立ち昇っていく。透明な空気の形を見た気がした。
子ども心に「綺麗。」ただそう思った。

波によって浜の方に押し戻されていたようだった。巻き上がった砂が少し見えたところで、逆さまになって水面から足を出していた私は父に救出された。
別に呼吸が苦しかった記憶もないし、本当に僅かな時間だったけれども、あの時水中から見た景色は綺麗だった。
半分くらい溺れた、ということになると思うけれど恐怖は感じず、ただその短い瞬間の映像だけが私の中に残っている。その経験があっても私には海に対する恐怖心というのはなく、ただ畏怖があるだけ。自然には敵わないということだけで、波にのまれたというのも人間が太刀打ちできない存在なんだということを知った幼い頃の経験。それくらいだった。
あの時は、海の中から出て太陽光を浴びて風にあたった瞬間に襲ってきた海水が目に染みて痛すぎて大泣きしたことと、髪の毛が海水と細かい砂によってガビガビになった記憶に上書きされて、あの時の感覚は忘れ去っていた。それと同時に見た映像も消し飛んでいた。


白昼夢、だろうか。
なんの前触れもなく、突如として再生される映像が頭から離れない。
そして、私の昔の記憶と交錯して私の頭の中に流れ込んでくる感覚がある。
誰かが見た”かも”しれない景色を私が追体験するような。

その映像に人の手が加わった。
それは自分のものかもしれないし、別の人のものかもしれない。ただそれが上からではなく下から伸びてくる手で、さらに右手。何かを探すようで、指先まで真っ直ぐに伸ばされた延長線には何があるのだろう。
その手に私はまだ意味を見出せていない。

この映像に対して私は答えを求めていないし、答えはないものだと思っている。
そしてできることなら名前のない何かただの画像であってほしい、そう願っている。もしかしたら、この映像も私の脳内の記憶が合体して作り出した嘘の虚像かもしれないし、”そう思わせたい”という誰かからの暗示かもしれないし、自分で自分に対して吐く空虚な自己暗示かもしれないから。

どちらかというと映像記憶が優れている方だ。
楽譜を覚えて演奏する(暗譜して弾く)時には、頭の中に楽譜を1ページ1ページ写真にしていくような感覚で、頭に定着させる。視覚から得た情報はすんなりと覚えている。一度観た映画やドラマを頭の中で再生することもできるし、この映像・画像の後にはこれがあって、次はこの展開が起こって、と思い出すことは得意。スパイ映画やミステリー映画・ドラマは一度観てからもう一回頭の中で映像を早送りしながらトリックや人間模様を復習したりもする。
一回の映像から得る情報が多いから、映画や映像は余暇の役割を果たしてくれないのはちょっと困るところではあるけれど。

見た映像や画像は基本的にこびりついて離れてくれない。
何かに影響されているものとはいえ、画像として自分の脳内に浮かんでしまったものすらも、そして現実世界にはない虚像(かもしれない)映像であるにもかかわらず、ささくれを静かに剥くチリチリとした痛みになるとは思っていなかった。
だから、こうして文章にすることで一度かさぶたを引き剥がしてみることにした。
血が出てしまえば、何か変わるかもしれない。微かな希望を持って。

静かな夜、ウィスキーのストレートを片手に文字を認める。
もしかしたらあったかもしれない時間軸と世界線と変えられない現実の狭間に身を置きながら、遠い過去と何かの映像に思いを馳せる。

Ich suche immer noch nach der Antwort und höre gleichzeitig auf, sie zu suchen.

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