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聴衆の耳を育てる(ちょっと番外編)

毎日いろんなことを考えているときに、新しい側面や視点があることに気がついたので言葉にしてみようと思います。

「聴衆の耳を育てる」の記事を書いているときに、届いた一通のメール。
わたしの叔母からのメールでした。
いつも応援しているよ!という温かいメッセージ、そしてわたしが目指すクラシック音楽の世界について共感したよと背中を押してくれる応援の言葉でした。

叔母には視力がありません。視力がだんだん落ち、視野が少しずつ狭くなり盲人となりました。
しかし、叔母はとてもパワフルで勉強熱心。見えなくなることの恐怖と戦いながらも点字を学び、白杖を学び(とても難しいのです、この白杖を持って歩くということが。まっすぐ歩くことの難しさやエレベーターの乗り方、電車の乗り方、点字ブロックの歩き方など、話を聴くと本当に難しいのです。)、前を向いて歩み続けています。

ピアニストだった叔母は、いつもわたしの演奏会を聴きに来てくれます。小さい頃の発表会から、たった5分の演奏でも必ず聴いてくれました。着物を自分で着付け、会場に来てくれた叔母の姿。演奏が終わった後、ドレスを脱いで走って会いに行って感想を聞くのが何より楽しみでした。
わたしが高校生の頃に企画していたレクチャーコンサートも白杖と共に聴きにきてくれました。叔母は見ることができません。そのため、演奏会ではわたしの音だけが頼りです。そして何の曲を弾くのか、作曲家の名前や時代や解説やエピソードは書き言葉ではない話し言葉が頼りです。

メールを読んで、ふと叔母にとっての「レクチャーコンサート」って何だろうと考えました。目で情報を得ない叔母は耳で全ての情報をキャッチします。その中で、演奏会で配られるプログラムではなく、音楽家が演奏の合間にお話をして演奏会を進めたら、叔母は聞くことで曲を理解し音楽を楽しむことができる。
あ、と思いました。「聴衆」でもなく、そして「育てる」でもなく、お話を織り交ぜながら演奏するレクチャーコンサートの形を求めている人というのは、実は多くいるのではないか?と気がつきました。
点字のプログラムを作るやプログラムを読み上げてもらうことも考えられるけれど、音楽家が音楽家自身の言葉で、声で、その場の空気で創り上げたものを感じ取ってもらうことが、演奏会の存在の最も大切なことなのではないでしょうか?
また、音楽は誰しも楽しむことができるものです。障がいやハンデの有無にかかわらず、全ての人が音楽を楽しめる演奏会づくりをすることも、音楽家に求められていることなのではないでしょうか?

「育てる」というところから社会福祉や誰もが同じように楽しめる世界づくりにつながっていけるのか、と音楽の多様性と自由さを改めて感じた瞬間でした。
視覚障がいがある人だけに向けた演奏会、また全ての人が同じように楽しむことができる演奏会を企画してみたいなぁと思います。

また、わたしの叔母も発信活動を一生懸命にしています。
週に一回ポッドキャストで「視覚障害者ゆりさんの日々」を更新しています。
台本を全て頭の中で組み立ててお話をしているのだとか…!
どんなふうに日々を積み重ねているのか、また点字のことや歩行訓練のことと、視覚障がいをもった人から見た世界についてお話ししています。
落ち着いた声のトーンで、ゆっくりじっくりと確かめるようにしてお話しする叔母の姿は、凛としていてとてもかっこいいです。
もしよろしければこちらから聞いてみてくださいね!
「視覚障害者ゆりさんの日々」

Wir sehen uns bald wieder!

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