【短編小説】面影の街
日が沈むにつれて影が薄くのびていくように、僕らの間に隔てた長い年月が、その面影をひどくぼんやりとさせたようだった。昔付き合った彼女と偶然再会したとき、僕は彼女が誰であるか瞬時には理解出来なかった。
「北山くん、ひさしぶりだね」と言ってはにかむ姿が、その声や間の取り方が、そして象徴的な左のえくぼが、ようやく記憶の中にある彼女と一致したことが、彼女が誰であるかを認識させたのだった。
「あんまり変わっていないんだね、びっくりしたよ」と彼女は言った。僕は、なんて返そうか迷ってしまった。僕の頭の中に思い描いていた彼女とはひどく乖離していたからだった。
久しぶりに帰省した故郷を、僕たちは高台になったこの東屋のベンチから眺めていた。辺鄙な田舎だった故郷には、こんな場所くらいしかデートスポットと呼べる場所が存在しなかったのだ。おかげで彼女との思い出も、大半はこのあたりにそこらかしこに散らばっていた。そのため、それを拾い集めることは容易だった。
久しぶりに見た故郷の街並は、僕が学生だったころとは違って見えた。知らない建物が立ち、空き地だった場所は埋め立てられて駐車場になり、賑わっていたスーパーは霧消していて、いつ崩れ落ちてもおかしくないような老朽化した薄汚いアパートがなぜかまだ建ったままだったりした。
ようするに、今の街の姿はまるでパッチワークを当てられたつぎはぎだらけの衣類みたいだった。記憶の中にある僕の街の姿が、いわゆる完成された姿だと思っていた僕にとって、今はなんだか奇抜なものへ変貌してしまったかのようだった。そしてそれは僕をひどく落ち着かない気持ちにさせた。
「実はね、去年結婚したんだよ」
と言いながら、彼女は左手を僕の右手の甲の上に置いた。シンプルなデザインの指環がそこにはあった。そういえば小さい手をしていたなと思い出す。付き合っていた時は何度もそんなことをからかって、その度に彼女は「うるさいなぁ!」と言っていたのを思い出す。
「覚えているかな?君と中学のときに同じクラスだった及川くんって」
「懐かしい名前だね、覚えているよ」
クラスの中でも華やかなグループにいた彼は、引っ込み思案な僕とは似ても似つかないタイプだった。どうして彼と結婚したのかと思うよりも、どうして僕とこの子は付き合っていたんだろうと疑問に思うべきな気がした。
「こうしてまた出会うなんて、運命なのかな?」
「…運命かもね」
僕が中学3年の頃から彼女と付き合い始めた。一個下の学年の彼女は、僕の所属する部活のマネージャーをしていた。どんな理由だったかは分からないけど、部活終わりに彼女のほうから告白してきた。そしてなんとなく続いた恋人関係は、お互いの高校が離ればなれになったことを境にして自然と衰退していった。ある日、彼女の方から別れを切り出された。当時は身を切る思いだったけれども、振り返るとよくある話だと感じる、二束三文にもならないようなチープな恋愛話みたいだ。
「今は、付き合っているひとはいるの?」
と彼女は聞いてきた。
「まあね」
と僕は嘘をついた。本当は、別れてからも彼女のことを僕はずっと思い続けていたのだ。心の奥底に沈めた埋み火のように。今の今まで。
「そうなんだ。上手くいってるんだ?」
「どうかな?僕はそう思ってはいるけど」
「ふうん、複雑なの?」
「あるいは」
いつかのデートの時のように、彼女の左手は僕の右手に重ねられていた。
「街も変わっちゃったよね」
「そうかな?よく分からないや」
付き合っていたとき、彼女は僕にとって一つも欠ける部分のない完璧な人だと思っていた。完成された美しさがそこにあると、僕は勘違いをしていた。けれども、本当はそうでは無かったのだ。
新しいものと古いものが入り乱れたこの街は、いつまでも不完全なまま、形を少しづつ変えて生きている。完璧だと思っていた彼女の姿もまた、実はつぎはぎだらけだったことに気づいた。この街と同じように。
「北山くん、ここで初めてキスしたこと、覚えているかな?」
「覚えてるよ、忘れるわけない」
「…もう一度、してみる?」
僕はこの街を眺めながら、そして憧れ続けた彼女の隣に座りながら、実はひどく悲しんでいた。あの頃と違う彼女の姿に、僕は全くときめかなくなってしまっていた。僕の好きだった彼女は、僕の憧れた彼女は、もうこの世界にはいなくなってしまったのだ。
深い郷愁のような気持ちが渦巻いていた。そして、彼女の話にも全く興味が湧かなかった。そのため彼女との会話は、足のつかない水場の中で、沈んでしまわないように必死に言葉の波を掻き分けた。
「しないよ。旦那さんに怒られちゃうでしょ」
と、僕は彼女からの誘いに乗らなかった。
「ふふ、冗談だよ。本気にした?」
と、顔を赤くしながら恥じらう女性らしい一面を見て僕は、なぜだか心の底が冷たく固くなっていく心地がした。
「じゃあ北山くん、またね」
「うん、会えて嬉しかった」
「私も」
「それじゃあ」
彼女が辻道の坂を下りて家に帰っていく。僕はその後ろ姿を眺めても、感傷が湧かなかった。
僕の好きだった君は、もういなくなってしまった。この世界のどこを探しても、君に会うことはもうないのだ。道標となる北極星を失った旅人は、どちらに進路を取れば良いのか躊躇い、そして彷徨うことになる。これから、どこへ行けばいいんだろうか?僕は人知れずにまた家とは違う方向の道へ歩き始めていた。
おわり
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