【短編小説】クローゼットの真実
学生ばかりが暮らす安普請のアパートばかりが立つ通りの一角にある、うらぶれたアパートの前の駐輪場に原付を停めて、僕は友人の部屋を訪れた。彼は部屋の前の渡り廊下でタバコを吸っていた。俯いて、とても疲れているような気がする。僕の姿を認めると、「ああ、来たか…」と言いながら近くにあったエメラルドマウンテンの空き缶に吸い殻を突っ込んだ。寝癖でボサボサの髪と首周りのよれたTシャツ、灰色のスエットにサンダルという、いつもの見慣れた彼の姿ではあったが、どことなく覇気を欠いていた。おまけにいつもより姿勢も悪い。連絡を受けたからここに来たものの、僕の姿を見ながらも要件を伝えることを躊躇っているような、居心地の悪い間を感じる。僕は、
「とりあえずタバコ吸ってもいいか?」
と聞いた。
「ああ、そうだな…」
と言って、僕はポロシャツの胸ポケットからセブンスターを、友人はハイライトメンソールを取り出して、また火をつけた。ジジジとセミが音を立てて焼けそうなくらい紅い夕焼けが目の前にはあった。欄干にもたれかかりながら、僕は改めて要件をただした。
「で、何があったわけ?」
「うーん…ちょっと不思議というか、信じてもらえんかもしれんのやけども…」
「なんやねん、はよいえや」
「うー…」
いつも明るい彼には珍しい、嫌な逡巡だった。何を戸惑っているのか、僕にはまだ検討がつかない。女か、金か、親か。まあ大学生の悩みなんて星の数のように数多にあり、そしてそれについて考え悩むのも学生の本分なのだとゼミの教授が言っていたのを思い出す。ちょっと長期戦になりそうな予感をひしひしと肌に感じながら、まぁどうせ今日はバイトもない暇な夏季休暇の真っ最中なのだ。ゆっくりとこのアパートの2階から夕焼けを眺めながら、タバコを飽きるほど消費してもいいと思っていたところだった。
ちょうど1本分のタバコが終わりそうなときに、彼は話し始めた。
「実はな、頼みがあって」
「なんだ、金か?」
「アホ!そんなんじゃないねん。まてや説明するから!」
ツッコミにも精細を欠いている。よほどの悩みと見えて、横顔を眺めるのをやめて欄干に両手を投げ出した。買い物袋をもった女の子が通りを歩いている。どんな夕飯を作るつもりなんだろうか?
「俺、人を殺したかも知れん」
「はぁ?なんて?」
「だから、昨日、女の子を殺してしもうたかも知れん」
冗談にしては低い声で彼が話すから、後半は腹に沈むように重たく感じた。彼のほうを見ると、唇が震えている。
「どういうことやそれ?何かあったんか?」
「いや、俺にも分からんのや。分からん!分からんけど、
昨日大通りで飲み会があったのはお前にも言ってたやろ?で、一次会が結構盛り上がって、そこでベタベタしてきた女の子もいたし、良い雰囲気のまま二次会でまた飲み直そうってなったんや。
それがどこだったか記憶も曖昧なんやけど、暗い店で、結構雰囲気も良かった気がするんやけど、
そこのトイレでな、二、三人でたむろしてる連中がいたんや。
でな、よう分からんし覚えてないんやけど、にいちゃんも一個どうや?みたいなことをそいつらに言われて、なんか薬みたいなもんもらったねん。
俺はおおきにぃって感じで、その場で手ぇ洗うついでにそれを水で飲んで、で、席に戻ったんや。
そうしたら次第に気持ち良くなってな、なんか知らんけど、そこからの記憶が全部曖昧なんや。
でな、実際記憶がそこから飛んでて、で、気付いたら自分の部屋にいた。
いや、いたのは事実やけど、何故か裸の女の死体がそこにあった…あった気がしたんや。
そこが曖昧で全然覚えてなくてな。でも怖くなって、何があったかなんて、知らなくて。ほんまなんやでこれ。ほんまに知らんのや、なんも…それでな、俺な、おれ…」
そこまで言いながら、友人はボロボロと泣き始めていた。気温が暑いはずなのに、背筋から冷や汗か出てゾクゾクと鳥肌がたってきているのを感じる。僕は友人の背中に手を当てた。分厚い背中だ。正義感のある、ラグビー部出身の彼は、身体こそ大きいものの、心はとても優しくて友人想いなのを僕は知っている。彼は溢れそうな鼻水を辛うじて啜って、そしてまた話し始めた。
「俺…怖くなって、それで、クローゼットに、その死体を押し込めたんや…
いや、正確には、そんなことをした気がするんや、するんやけど、どこまでが夢で、どこまでが現実だったのか、俺には分からんのや。
変な薬飲んでから、全てがホワホワしたまんまになって、それで、それが現実に起こったのか、それともただ夢を見ていたのか、俺には判断することができんねん。
だからな、突然呼んですまんのやけど、これから一緒にな、クローゼット開けてみてくれへんか?
一人で見る勇気が、どうしても湧かんねん。俺、ほんとに死体が出てきたら、怖くて怖くて、親とかにもなんて言ったら良いか分からんのや。ほんまに混乱すると思うねん。
だからさ、ほんますまんのやけど、頼むわ。俺と一緒に、クローゼットの中に何が入っているのか、確認してくれへんか?頼むわ!頼む!」
こんなことってあるのか?僕は理解が追いつかないけど、もしかしたら友人が殺人を犯したかも知れないという場面に立たされていながらも、まだその事実を飲み込めないでいた。ただ言えることは、これから起こることに、きちんと処理し、対応していかないといけないという正義感が僕を突き動かしていた。
「お前の言いたいことは分かった。クローゼットのなか、確かめよう。そして、どうするか、一緒に考えよう。」
背中をポンと叩く。友人は、うっ…と声を詰まらせながら、大きな動作て生唾を飲み込んでから、「…うん。ありがとう」と言った。
ドアを開けると、あまり掃除されていないであろうカビとヤニくさい部屋に上がり込む。軋むキッチンの床板を確かな足取りで歩いていく。友人も後ろについてきている。
ワンルームの部屋の引戸を開けて、洋服とペットボトルだらけで踏み場のないカーペットを注意深く歩きながら、僕らはクローゼットの前までやってきた。
部屋は切れかけの蛍光灯の弱い光と、カタカタ音を立てるエアコンの冷房が効いていて、それが逆に寒々しい印象を与える。
呼吸が荒い友人に、「いくぞ?」と言い、僕は震える右手を伸ばして、折れ戸を思いっきり手前に引く。すると、何か肌色の物体がずるりと傾倒し、そしてベタンッと音を立てて部屋に倒れ込んだ。友人は悲鳴をあげたが、僕は頭が真っ白になってその物体を眺め続けた。
「マジかよマジかよ…マジかよマジかよマジかよ…」
友人は頭を手で覆いながら、その場に崩れ落ちていた。
僕はその人型をした物体が、一体なんなのかを認識するまで時間が掛かったが、それがなんであるかを確信すると、「おい!なんだよこれ!お前馬鹿か!ダッチワイフじゃねーかよ!」とその物体を掴んでみた。シリコン素材でブニブニなそいつは、触れるとこんにゃくのようにぷるぷると全身を震わせている。
「へっ?」
「どこで拾ってきたんだよこれ!くっせえ」
と言いながら、所々傷だらけで薄汚れたダッチワイフを友人に見せつける。
「は…はは。なんだ、なんだよこれ!」
「お前酔っ払って何拾ってきてんだよ!捨ててこいよこんなの」
「なんだ、良かった。良かったよ…」
「何泣いてんだよ馬鹿!こんなん拾って何が「女の子を殺した」だよ!夢見てんじゃねーよ!」
ようやく友人は事の真相に気付いて、そして涙目になりながらも腹から笑い始めた。
「ははっ、ははは!」
僕も涙目になって、でも嬉しくて笑えてくる。
「ははは!」
「はは、馬鹿だなこんなの。なんでこんなん拾ってきたんや!てか、なんでこんなん捨ててあるんだよ」
「ほんとだよ!驚かせんなアホ!」
二人で大声で笑い合うと、隣の部屋から「ドン」という音が聞こえてきた。うるさかったらしい。僕らはひとしきり笑いあい、そしてようやく笑い終わると、「とりあえず腹減ったし、マックでもいくか?」と彼は言った。
「良いけど、今日は奢りな」
「はは、今日くらい奢るわ、さぁ行こうぜ」
と言って、僕らは原付に二人乗りして、マックまで飛ばした。
スロットルは全開にして、二人で大笑いしながら国道沿いの細い道を通り抜けていく。あんまり笑いすぎたから、街のネオンが涙でぼんやりと滲んでみえた。僕らの夏がまだまだそこにたしかにあった。
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