【短編小説】忘却のための習作

1
僕は一度だけ、野球でライトを守ったことがある。しかも、試合中に一度も捕球することのない、つまり仕事がないライトだ。
それは僕が小学生の3年生だったか4年生だったか、地区の自治会対抗で行われる少年野球大会でその機会は回って来た。
地区の自治会と言っても、実際にはいろいろな地区から子どもたちを集めて作られた急造チームであり、そんなツギハギだらけの服みたいなその一片に、僕のような野球の経験が全くない子どもまで借り出されていた。

当時の僕は野球のルールのなんたるかも理解していなかった。周りの小学校高学年や中学生に混じった僕の姿は、今思い返すと滑稽なものだったと感じる。おそらくほかの子どもたちは学校の野球部だったり他の外部の少年野球のチームに所属していたのだろう。それぞれのチームのユニフォーム姿をした彼らの中に、僕だけが借り物のグラブに学校指定のジャージ姿、マジックテープの運動靴。群れた白鳥の中に混ざったカルガモみたいだ。当然ながら周りと話も合わずに孤立した。

試合はつつがなく進行した。僕以外のメンバーはそれなりに活躍したし、ピッチャーの子は素晴らしく速い球を投げた。また打たれてもセンターの子がライト方向も含めて外野をカバーしていたため、内野を抜けた球は全て彼が拾ってくれた。そのため僕の前に一度も球は来なかった。
僕の人生で初めての野球大会は、そんなふうに過ぎていった。何かをするわけでもなく、照り返しの強いグラウンドの上で、僕はまるで世界でたった一人ぼっちになってしまったかのような感覚を覚えていた。まるで引力圏から解き放たれた人工衛星のように、どこまでも続く宇宙空間の最中に放り出され、このひとりぼっちがどこまで続くのか、どこで終わるのか、その行き先すら分からない永遠の迷子。意識は自身のコントロールを失い、どこに行くことも叶わずにそこに漂い続けなければいけなかった。この少年時代にあったこの感覚を、僕はその日、また思い出していた。

2
電話というのは受け取る側はいつも突然であるが、かける相手からするならば必然的であり、かつ宿命的である。自身の要件を持った人物が、その意思をもって通話ボタンを押している。世界中のどこにでも張り巡らされている電波を通じて、この世界にはいついかなる瞬間でも電話をかける相手がいて、かけられる相手がいる。畢竟、僕に一本の電話がかかってきたことが事の発端である。
僕はその時大学一年生だった。大学の昼休みの時間に振動した携帯電話を見ると、見知らぬ番号からの電話であった。
このような見知らぬ番号からの着信は、こちらの都合を考えない一方的な下らないセールスからであったり、自己都合を通すことに遠慮のない人間から七面倒な要件を頼まれたりして、僕の貴重な時間を無下に拐かされたりすることがあるため、最近では用心して出ないという選択をとることが僕は多かった。だが、その着信に関しては何故かは分からないが、僕は自然と通話ボタンに手を掛けていた。まるで扉のノック音だけで、誰が部屋の前でノックしたのかがなんとなく分かってしまうように、この電話の先にどんな人物がいるのかがわかったような気がしたのだ。代わり映えのしない着信を告げる携帯電話の振動の中に、その温度感や機微の違いがまるで存在しているかのように。いや、ただその時はたまたま、“電話に出てみよう”という気紛れを起こしただけだったかもしれないが。

「もしもし、すいませんがコウノさんの番号で間違いないですか?」
コウノと言うのは僕の名前だ。どちらかというと無機質に近い、しかし若干の緊張の色がその声色に混ざった女性の声がした。僕は「そうです」と答えた。
「ああ、よかった。」
その吐息のように出た一言で、この女性に対して親しみのようなものを感じた。僕は少しだけ警戒心を落とし、「失礼ですがご要件は?」と尋ねた。
「あの、私、タチバナメイです。もしかしたら覚えていないかも知れないけど、同じクラス、文学科1-Aの。」
「知ってるよ、たしかさっきの授業でも近くに座ってた。」
「そうそう。哲学史Ⅰの授業。そういえば席が近くになることがおおいよね。あのさ、コウノ君ってたしか、山川ヒロムが好きだって言っていなかったっけ?」
ちなみに、山川ヒロムは僕の愛読している作家の名前だ。「たしかに最近はよく読んでる」と返答をすると、「だよね、よかった。じゃあ『霧雨』は読んだことある?」とタチバナは質問してきた。
「もちろん。」
「じゃあさ、今度の日曜日に一緒にその映画を見に行こうよ。チケット代は持つからさ」
まるで彼女の野球グラブからボールが出てきて、そして僕に投げつけられたみたいだった。同じクラスの女子からの、容赦も衒いもない見事にど真ん中に放たれたストレートな誘いだ。僕はその真っ直ぐな誘いに驚きつつ、二つ返事で了承していた。

同じクラスのタチバナとは、大学入学時の自己紹介を兼ねたオリエンテーションの時に同じグループになったくらいで、それまで直接会話を交わしたことはなかったと思う。目立つような特徴はないが、周りを巻き込む明るさをもったムードメーカー的な存在で、学校のヒエラルヒーの中でも中間ほどに位置して上手く立ち回りそうな印象の子だったと思う。僕にとって彼女は、春先になるとそこらじゅうに群生するシロツメクサのように、特別でもなんでもない、ただのクラスメイトの一人くらいにしか思っていなかった。

そのタチバナからの誘いに、僕はひどく当惑した。彼女と僕が共に出かける理由について、僕の頭の中の良識者たちによるさまざまな議論と検討がなされた。僕は思考という生い茂ったジャングルの中で、時には蔦に脚をとられたり木々の枝に腕を引っ掻かれたりしながら彷徨い歩き、そしてその途方のなさに次第に疲弊していった。しかし良識者たちは決して席を立つことなく、頭の中に鎮座したままだった。
考えうる最悪の状況も考慮に入れて、変に斜に構えてみたりしたし、彼女と男女の関係になる可能性や、天文学的数字の中の一回として起こり得るかもしれないデートの後のセックスの段取りのことも考えたりした。実際にベッドの中でどういう手順、手筈を踏むのが女性にとってベターであるのかをインターネットで調べたりもした。彼女を恋人としたときの将来のことを考えたりもした。僕はそのくらい混乱していた。友人に相談しようかと思ったが、下手に茶化されたり噂になるのも怖かった。この時の僕はまだそういう男女の関係において免疫がなかったのだ。僕の歴史のなかで18歳という年齢は、つまりそういう年齢だった。異性からの一つの言葉に馬鹿みたいに舞い上がってたり、不安に思ったりした。

3
そして悶々とした時間も永遠に続くわけではなく、約束の週末はきちんと正確な歩みを持ってやってきた。その正確すぎる歩みは時に優しく、そして恒常的に無慈悲でもあった。
初夏の比較的穏やかな日差しに恵まれた約束の日曜日に、緊張のために眠りが浅くなっていた僕は朝の4時半には完全に目をさましてしまった。非日常的な出来事やイベントなどがあるとどうしても眠りが浅くなってしまう宿痾が僕にはある。人生には刺激が必要不可欠だと誰かがうそぶいているが、僕は出来るだけ何も起こらない日常というものを深く愛する性質なのだ。
僕は以前一度だけ交通事故に会い足を骨折をして大学病院に10日ほど入院したことがある。8人部屋の一角のベッドをあてがわれた僕は、常に他人がそばにいる状況に緊張していた。毎朝の体調チェックの際の血圧計はいつも異常値を示したし、ときおり体調を崩して寝込んでしまうこともあった。夜中にナースコールを押して睡眠導入剤を頼まないとゆっくり眠れないことも多いほど、周りのことが気になってしまい、入院生活は全くリラックス出来なかった。
それは何が潜んでいるか分からない暗闇に怯えた草食動物のようだった。常に他者からの視線や話し声、生活音、その人の表情で頭が一杯になってしまうのだ。満員になる平日の通勤電車のように、外部からの刺激がひっきりなしに押し寄せ、そして堆積していく。お陰で時間をかけて読もうと思って持参したたくさんの文庫本も、目が滑って内容がほとんど頭に入らなかった。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた通勤電車のなかで、僕は立ち尽くす以外なかったのだ。それ以上たくさんの物事が詰め込まれそうになると思うと、頭をそのままかち割ってしまいたくなるほど混乱してしまう。
そんなだからか、人目を気にせずに生きている人がなんとも羨ましいと感じる。もっと楽に生きれたらいいのに。そして、週末くらいは何も気にせずにたっぷりと眠れたらいいのに…
カーテンを開けた先にある天気は、まるで貼り付けたシールが上手く剥がすことが出来なかったみたいに、空にどんよりとした雲が厚くへばりついていた。僕の住むこの地方では最近梅雨入りが宣言され、その日も湿度の高い空気が粛々と漂っていた。
覚醒した意識を落ち着けて、もう一度ベッドに横になった。約束した14時まではまだまだ時間はある。携帯電話を眺めながら、今日のデートプランや、着ていく服や、話題に困らないよう最近あった面白い事などについて考えを巡らせていた。いくら時間が過ぎようとも、それから僕が深い眠りに落ちることは無かった。

4
約束の14時を過ぎても、彼女は約束した場所に現れなかった。少し前に携帯電話に連絡があり、「ごめん、少し遅れるかも」と簡素な一文が送られてきた。
駅前の広場で、僕は壁に背をつけながら立って待っていた。通り過ぎる人の一人一人の顔をチラリと見て、彼女じゃないことを確認しては携帯電話を開いたり腕時計に目を落としたりした。寝不足気味で頭は重たかったし、血の巡りが悪いのか足元がフワフワしているような感じがした。脚先の感覚を確かめるように何度か足首を回したり組み直したりしながら、自分をその場の風景の一部として溶け込めるように無表情を顔に張り付けていた。厚い雨雲はまだ頭上にあったが、まだ雨は降らずに持ち堪えていた。そのうちに、自転車に乗りながらタチバナメイはやってきた。
「ごめんごめん、おまたせ。」
見るからに素人の手で塗装されたであろうその自転車は、お姫様御用達のサラブレッドというより、小さな子どもがよく遊んでいる、うらぶれた遊園地にあるメリーゴーランドの馬のようだった。パステルピンクに手塗りで粗く彩色されたボディがあり、後付けされた箱型のバックミラーがハンドルにつけられていた。所々不恰好ではあるが、なかなか細部まで手が込んでいるようだ。
「あ、この自転車、なかなか素敵な自転車でしょ。お父さんの趣味なの」と彼女は言った。僕は、
「BAD ASSだね」
と親指を立てた。彼女はVサインをしながら
「ピース」
と言った。僕の前で止まった自転車から降りて彼女は「とりあえず駐輪場に置かなきゃだから、ついてきて」と言った。
彼女はカーキ色のチノパンに縹色のシャツを着て、灰色の薄手のカーディガンを羽織り、肩ほどまである髪をひっつめてポニーテールにしていた。足元にはソールが程よくすり減った、白を基調としたハイカットのコンバースだった。デートのために用意されためかし込んだ服装というより、普段から着慣れた格好といった感じに見えた。しかしラフな格好ではあったが、それは彼女の身体によく馴染んでいてスマートに見えたし、発酵したパンのようにふっくらと成長した彼女の大きな胸は少なくとも僕の心を躍らせた。
「遅れちゃってごめんね。ちょっとお店のほうが忙しくて…」
「お店?」
「そう。私のお家で商店をしてるの。タチバナ商店。基本的に業務用のものを居酒屋とか定食屋に卸すのが主な仕事なんだけど、店番とか配達とかをよく頼まれるのよ。今日は休日だし、急ぎの配達が多くてちょっと遅れちゃった。」
彼女の服装はその仕事中の制服みたいなものらしい。そしてよく使い込まれたその自転車は、経年の割には滑らかそうに動いていた。仕事の大事な相棒として、きちんと点検され油が注されて大切にされているのだろう。自転車を押して歩く彼女は、まるでよく調教された犬を引き連れたブリーダーのように見えた。ふわりと香るのは彼女の髪の匂いなのか、それとも河川敷に咲いている花なのか判別はつかないが、彼女の隣を歩いているとなんだか清々しい気持ちがした。こんなジメジメした初夏の曇天の下でもだ。

5
自転車を駅前の駐輪場に停めた後も、彼女の口はよく動いた。家の仕事の話や、履修している授業のことや、好きな音楽や本の話など、ひっきりなしに彼女は話し、僕はそのほとんどに相槌ばかりしていた気がする。彼女の唇にひかれた薄い紅色が、きっと僕のためにひかれたものであると思うと嬉しくなった。ときおりキラキラした水面から魚が跳ね上がるように、口の形が綺麗な弧を描いて僕に笑顔を見せていたのは鮮明に頭に焼き付いている。綺麗な口元だと思った。
だが、彼女の止まることを知らないその口吻は、おそらく相手が僕じゃなく、例えば自動で返事をしてくれるカカシに対しても同じように会話をしていたのではないかと思わせた。その時の彼女の瞳には、僕は一人の異性として写っていたのだろうか。僕は彼女の一体なんだったんだろうか。彼女の引力圏の中に、果たして僕という惑星が存在していたのだろうか。そしてそれは第何惑星なんだろうか。それともただの隕石のように、たまたま落下してきただけなのだろうか。そんなことを知る術なんて今となってはないのだけれど。

「タチバナさん、どうして僕を映画に誘ってくれたの?」
と、奔流とも言える彼女との会話の激しい流れに話題が飲み込まれてしまう前に聞いてみた。
彼女は「うーん」と言いながら、少し答えあぐねた様子を見せた。
「二つあるんだけど、まず一つは、コウノくんが哲学史Ⅰを履修しているから」
「哲学史Ⅰ?」
「そう」
「ノートを貸して欲しい的な?」
「お恥ずかしながらそうなの。私の友達にいないの、哲学史Ⅰなんて取っている人。家の仕事の都合とかもあって、私どうしても授業に出られなかったりする時があるから、友情の力を借りて夏休み前のレポートなりテストなりを乗り切らなければいけないの。だから、コウノくんも私にちょっとだけチカラを分けてほしくて。」
「その見返りとしてってことね。」
「ピンポーン!それともう一つ理由があってね…」
という前置きをしてから、彼女はこんな話をした。
「コウノくんは、幼い頃シーソーで遊んだことはあるよね?」
僕は、「もちろんあるよ」と言った。
「私、昔はすごくシーソーで遊ぶのが好きだったの。でも、シーソーって、一人では遊べないじゃない?当たり前だけどね。
で、幼かったころの私は、その日どうしてもシーソーで遊びたかったの。私の近所の公園にはシーソーが無くて、家から少し離れた公園にしか無かったから、そこまでわざわざ行ってね。
いま思うと、幼い私にとっては遠くの公園まで歩く道中すら、ちょっとした冒険だった。そして、到着して楽しみにしていたシーソーを目の前にしたけれども、知っている子なんて周りにいなかったし、もう夕方になって、みんな帰り始めていたの。だから誰にも声を掛けられなかったし、私は一人でシーソーに乗ったの。
もちろん工夫して一人で遊べるようにしようとした。大きめの石なんかを反対側に積んで、なんとか試行錯誤してみたの。結果を言わなくてもまあ分かると思うけど、結局全てダメ。試みは失敗に終わったの。私の座ったシーソーの片方は下のゴムタイヤについたままだったし、誰も座っていない片方は上に上がったままだった。それに、積んだ石は明らかに軽すぎたし、傾斜がつくとすぐどこかにコロコロ転がっていったわ。辺りが暗くなるまで、なんとか乗れないかなと試してみたのに、結局シーソーで遊ぶことはできなかったわ。
だから私、そこから学んだの。楽しいことをする時には、必ず誰かを誘って行った方がいいって。もう一人であんなに寂しい思いをしないように、これからは遊ぶときは誰かに積極的に声をかけようって。そうしないと、きっと本当に寂しいと感じたときに、誰にも声を掛けられなくなっちゃうんじゃないかって。そんなのって、嫌でしょ。自分が本当に本当にほんとうに寂しいと思う瞬間が訪れたとき、周りに声をかけられる人が誰もいないなんて、私は耐えられないと思うの。」
そんな彼女の話に、僕は、
「でもさ、一人のときはブランコがあるよ。」
と言った。すると彼女は少し驚いた顔をしながら、
「どうしてブランコが出てきたの?」
「だって、ブランコだったら一人でも遊べるでしょ。」
「誰もブランコの話なんてしてない。」
と彼女の口元で先程まで優雅に動いていた唇が、その後ピタリと身動きを取らなくなってしまった。
気まずい空気が流れていたのを感じた僕はつい咄嗟に「ごめん」と言った。軽い冗談のつもりだったのだ。でも、彼女がどうしてそこまで怒るのか、理由もいまいち僕には理解出来ていなかった。

彼女が沈黙した時間は実際にはほんの数分くらいだったはずだけど、それは恒久的に続くのかと思ってしまうほど長く感じた。それまでよく動いていた彼女の可愛らしい口は、真一文に閉じたままだった。大きなお城の城壁に立て付けられた城門のように、ただでさえ数人掛りで開けるサイズの扉に、さらに重たく大きな閂が嵌められているかのようだ。
僕はあらゆる話題を脳内にあるクローゼットから引き出して、なんとか彼女の気にいるものはないものかと探してみた。でも、今の彼女に相応しいと思われる話題なんて、僕に持ち合わせているとは思えなかった。僕は彼女のことなんて何も知らなかったし、こんなふうに怒った女性に対してどんなことを話したら良いのか、またどんなことをしてあげたら喜ばすことが出来るのか、その時の僕は知らなかった。ピアノ線が張られていないピアノのように、僕がどれほど曲を練習して、そして滑らかに鍵盤を叩いてみても、結局ピアノから音がなることは無かったみたいに。彼女の不機嫌さを止める方法は無く、その緊張によって僕はキリキリとした頭痛を感じていた。
無言のまま二人は黙々と歩き、そしていくつかの信号を渡り、いくつかの通りを抜けたあとで彼女は立ち止まり、少しだけ深く呼吸をした。彼女の凝り固まっていた口元が少しだけ緩んだ。それはきしんだ音を立てて扉が開いたようだった。
「コウノくんはさ、きっとすごく賢い人なんだね。…ちょっと私喋りすぎて喉渇いたかも。ねえ、何かのみもの、奢ってくれないかな?」
あくまで自然に見えるように彼女はそう言った。上空の雲の隙間からすこしだけ見えていた青空は、今は灰色の厚い雲に覆われてしまい完全に見えなくなってしまっていた。先ほどまで聞こえていたセミの合唱もいつの間にか静かになっていた。雀だか燕だかの小さな鳥の影がふと目の前を通り過ぎて行った。この後にわか雨が降らないといいけど、と僕は思った。

6
駅から続く大通りは人でごった返していた。誰かの笑い声が聞こえたり、大きな音を立てている車だったり、クラクションの音だったり、思慮の欠いた遠慮のない人々の立てる音で騒がしかった。
その中でも一際目を引いたのは、大声で電話口に文句を垂れている赤い横縞のシャツを来たおじさんだった。おそらく相手はカスタマーサービスみたいなコールセンターの女性の声が漏れていた。(おそらく彼の耳が遠いのだろう、電話の音声が周りにも聞こえてくるくらいの音量だったのだ。)「登録番号が手元に無い」だの、「あんた方がそっちの会社に確認したら良いだろ」だのという声が聞こえてきた。そのおじさんは混乱すると、人に強く当たってそれを解消しようとするみたいだ。
世の中には色んな人がいるけれど、存在するだけで周りの人々を不快にさせる類の人間がいる。僕もタチバナも、おじさんの高圧的な態度に自然と怯懦していた。
それまで二人の間で弾んでいた会話は空気の抜けたボールのように、あまり弾まずに、にぶくゆっくりになっていっていた。そして楽しそうに踊っていた彼女の綺麗な唇は、ゆっくりしたものになっていた。まるで足首でも捻挫したダンサーのように、その動きから優雅さも嫋やかさも失われてしまっていた。


いつも通りの、何度も何度も経験してきたはずの、休日の街並みが目の前にあった。休日に流れる街の喧騒の中にいると、僕はたまに自分に流れている時間の歯車と、世間との間の歯車が上手く噛み合わないような気持ちになる時がある。そっと深呼吸をする。いつの間にか呼吸が浅くなってしまっていたのに気付いた。彼女の横を歩きながら、特段暑いというわけでもないのに額から降りてくる汗は止まらなかったし、それを拭うタイミングにすら気を遣っていた。僕という歯車かギチギチと軋んだ音を立てている気がした。
気付いたら映画館に到着していた。上映の時間を確認して、少しだけ時間があったので僕らはそれぞれ飲み物を買って、くたびれた待合の椅子に座った。ドリンクとセットのポップコーンをつまみながら、僕は今から見る映画の原作の話を説明した。彼女の視線は、膨らむことが出来ずに取り残された気の毒なポップコーンの種をじっと眺めていた。これまで何回も重なり合っていた二人の視線が、だんだんと親密さを無くして方々へ散りはじめていた。

7
僕は基本的に映画を見ない人間だった。詳しく言うならば、テレビなどで良く流れているアニメ作品だったり、名作と呼ばれる洋画などは何個か見た記憶がある。しかし、映画館まで脚を運んで鑑賞することは基本的にあまり無かった。それは僕の住んでいる地域の近くに映画館が無かったということもある。幼いころは近くの公民館などがフィルムや射影機を借りてきて、映画を見たことは何度かあった気がする。(しかしそれも幼い記憶なのでうろ覚えなのだが。)だから、僕はこのように映画館で映画を、しかもあらかじめ原作を知っている作品を見ると言うのが生まれてはじめてのことだった。
『霧雨』(念のために付け加えておくが、もちろん架空の作品名であるし、山川ヒロムという作家も架空である)の中に登場するヒロインの“雪”という名前の人物に、僕は強烈に惹かれていた。引っ込み思案で清楚で純潔な、でもきちんと自分の意見をもった芯のある、まさに降り積もったばかりの新雪のような純白なイメージの女性として原作では描かれていた。そんな雪というキャラクターが、一体どんな風に描かれて演じられるのか。僕の中のイメージにしかいなかった雪という存在が、とのようにスクリーン上で再現されるのか。大きなスクリーンを目の前にした僕は興奮し、そしてすこしだけ緊張していた。

そして映画が始まると、僕は酷くがっかりした。映画で見た『霧雨』は、ストーリーも上映時間の都合により書き換えられていたし、キャラクターの人物像も変わってしまっていた。無論、台詞回しも変わっていたし、何より憧れていた雪の姿は、テレビでよく見かける女優の薄っぺらな演技によって汚されてしまった。多くの原作ありきの実写映画がそうであるように、ただの大衆映画としての作品になってしまっていた。
その映画を見ている最中、僕は不機嫌さを隠すことが出来なかった。肘置きに肘をついて頭を支えながら、雪の姿が見えるたびに、またその演じている声が聞こえるたびに、ため息をついたり、手で目元を押さえていたりした。僕の憧れた雪の姿をこれ以上汚して欲しくなかった。映画に誘ってくれたタチバナには悪いけれども、僕は気付かれないように目を閉じて自分の世界に入ってしまおうと思った。疲れくたびれた蛍光灯が点滅するかのように、次第に意識が飛び飛びになっていき、映画の半分ほど見る前に気付いたら少し眠ってしまっていたようだ。
そして目を開けた時には映画はラストシーンに近くなっていた。隣にいた彼女は、微動だにせずにじっと映画を見ていたが、僕の視線に気付いてこちらを見て、そして微笑みかけてくれた。そしてまた視線をスクリーンに戻した。彼女の頬が少しだけ濡れているような気がした。真剣な横顔を見ていると、僕は先程まで片意地をはってしまっていたことに対して、そして映画の途中で眠ってしまったことに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

8
「コウノ君寝てたでしょ?」
映画を見終わり、席を立つとタチバナは僕の左腕の裾をふと掴んでそう聞いてきた。僕は素直に、
「ごめん。実は今日上手く眠れなかったんだ、女の子と映画に行くのなんて初めてだったし。それで…」と言葉にしてみて、その返答は喉の途中に詰まってしまって出て来なくなった。彼女が僕の顔を覗き込んでいる。
「楽しくなかった?」
「いや、そんなことないよ」
「顔によだれの跡がついてるよ?」
「えっ!?」と僕は顔をちょっと拭いてみた。
「うーそ。もう、女の子と映画に行ったらキチンとしないとダメだよコウノ君。」と彼女は僕に向日葵のような笑顔を向けてくれた。でも、夏の向日葵は太陽の方向に向かってその花を咲かせるけれど、彼女は僕のような日陰に向けて笑顔という花を咲かせるべきじゃないと感じた。
どうやら映画を見ている間に、にわか雨が通り過ぎたらしい。外に出ると、ムワッとした熱気と強いアスファルトの香りがした。薄暮のなかに僕らの影が二つ伸びていた。タチバナは、「私買い物してから帰るから、ここで解散ってことで」と言った。柔らかそうな前髪がふわふわと揺れながら夕暮れの色をたっぷりと吸い込んでいた。その時の彼女の顔が、ちょうど夕陽と逆光になっていて、仄暗くてどんな表情をしていたのか分からなかった。
「さよなら、コウノ君。」

9
自宅に帰り、僕は夕飯を作っていた。ご飯を冷凍庫から温めて茶碗に盛り、安いお肉を焼いて、お味噌汁のパウチを汁椀に開けてお湯を注いだ。そうしたら、器のどこからか水が漏れていたらしく、汁椀の下からポタポタとお味噌汁のつゆが滴っている。気付かずにいたら、きっといろんなところを汚してしまったかもしれない。新しい汁椀を買わないといけないなと思いながら、マグカップにお味噌汁を移した。
ふと遠くから、花火の音が聞こえてきた。僕はカーテンを開けて、窓から空を眺めた。僕の住んでいる場所は、映画館のある街の中心部の駅から一駅離れた場所にあるので、中心部の花火大会の時は音だけが聞こえるけれども、その姿は見えないのだ。
僕は孤独感に胸を掴まれたみたいな気持ちがして、作りかけの夕飯をそのままにして、玄関にあるクロックスに足を突っ込んで外に出た。そして、高いマンションなどの建物を避けて空を眺められる場所まで小走りに駆けた。その間にも花火の音の間隔は短くなり、その終演に向かい激しさを増していたし、街中の方からは花火の煙が流れてきていた。でもいくら高い場所に移動しても、僕はその花火の姿を見ることは叶わなかった。僕はタチバナに、「花火見えた?」とLINEしたが、10分経っても30分経っても既読は付かなかった。実は映画を見た後の帰宅中の電車の中でも、僕は彼女に「映画に誘ってくれてありがとう。出来たらまた今度も一緒に行こう。」と連絡していたのだが、それにもまだ既読はついていなかった。
僕は何かに取り残されてしまったかのような気持ちになった。胸の奥がまるでキツく絞り込んだ雑巾みたいに苦しくなって堪らなくなった。高架橋の上の、薄汚れたガードレールに手をつきながら、厚い雲のせいで見えなくなっている星たちの存在を想像した。そして、僕はあの小学生のときの、一度だけ経験した野球大会のことを思い出した。僕はいつまでもフライが上がってくることを願って空を眺めていたが、真っ白な野球ボールが打ち上がってくることは無かった。

おわり

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