【自作小説】綿毛

※11,100字程度、20分ほどで読めます※

私が友人と昼休みのお弁当を食べていたら、ふと教室の扉のほうに自然に目がながれた。その扉の窓越しに、先ほどから他のクラスのガラの悪い連中が一同に介しているのが見えていた。私は、ウチのクラスの誰かに用事でもあるんだろうかと訝しんで眺めていたのだが、どうやら彼らは中嶋くんに入り用だったらしい。中嶋くんが購買から戻ってくるや否や、立ち所にその連中に呼び止められ、何やら立ち話をしているみたいだ。彼らの真っ黒な詰襟の制服姿がたくさん集まるのを遠目で見ていると、まるで動物の屍骸に群がる真っ黒いカラスが群れているみたいに見えた。なんだか不気味で、あまり良い気がしなかった。
中嶋くんは、私が昔小さいときに飼っていたドジョウに似ている気がする。顔が、というわけじゃなく、全体的な雰囲気が。水底を這うようにパクパクと口を動かしている、ひっそりとした姿。大きな岩陰にその小さな身体をたくみに隠しながら、目立たずに、そして思慮深く、慎しみ深い、決して多くを語らない仙人のような、そんな出立ちが彼の雰囲気と妙に重なり、私にとってそれは好印象だった。ただ、それが恋愛感情かと問われると、少し考えちゃうんだけども。兎に角、中嶋くんはそんな人だった。間違っても、集団で騒いでいるような粗野な人たちと一緒にいるタイプではないと思う。だから、その集団の中で背中を丸めている彼を見ていると、とても気の毒に思えて仕方なかった。
私と友人がお弁当を食べ終えるくらいになってようやく、中嶋くんは教室の中に戻ってきた。彼らに長いこと拘束されていたらしく、一息つくとすぐに、手に持った惣菜パンと紙パックのミルクティーを自分の席に座して食べ始めていた。昼休み時間があと10分ほどしか残っていなかったので、せかせかと咀嚼している。その後ろ姿はなんだか悲愴的だが、しかし私はそんな彼の姿が愛おしく見えてしまう性質だった。生きづらそうにして肩身の狭い中嶋くんが、おどおどワタワタしている様を、遠い場所から眺めていたい。もし可能であれば、彼を透明な金魚鉢に入れて飼えたら良いのに。そんな妄想をしてしまう私って、ちょっと変わっているのだろうか?

午後の授業が始まる前に手持ち無沙汰になっていた私は、なんとなく自分の手の平を眺めていた。最近それがちょっとした癖になっている。別に何も意図している訳ではないのだが、気付いたら手のひらを見ていることが多いのだ。そういえば、「手のひらを眺めている人は死期が近い」という噂を聞いたことがある。理由は忘れちゃったのだけれども。もしかしたら、私も死期が近いのかな?まだ高校二年なのに。それとも、手のひらを眺めている内に、その手鏡に私の近い未来が映って見えてしまう、みたいなファンタジー的な事柄が起こり得るのだろうか。しかもこんな私に。
(まさか)
でも、そんなロマンチックなことがあったらいいのに。いつのまに私は、現実的にしか物事を見ることが出来なくなってしまったんだろ。なんだかつまんない人生。典型的ロマンチック枯渇症。おおドクター、どうかこんな私に惚れ薬を処方してください。というか、私にとっては生死うんぬんより、この歳にしてまだ一つの浮いた話も無いことの方が致命的だと思うけど。
「みっちー何してんの?」
と友人のカナに聞かれて、
「ん、暇で手相みてた」と返答した。
「マジ?なんかわかる?」
「いや、生命線くらいしかわかんない」
「なにそれ。ねぇねぇ、じつは私KY線あるんだ、ちょっと見てみ…」
と、下らないやりとりしていると、視界の端の方に中嶋くんが、女の子と話をしているのが見えた。まあ大体想像はつくけど。あ。やっぱり相手は岩波さんだった。岩波さんは隣のクラスなのに、よくウチのクラスに遠慮なくツカツカと入ってくるし、そして十中八九、中嶋くんと話をしている。そして要件を済ませるとあっさり消えてしまう。他のクラスから来ているのに、その立ち姿があまりにも我が物顔で堂々としていて、私はなんだか釈然としない気持ちにさせる。だって普通はさ、クラスの外から呼び出したりしないかな。しかも、二人は付き合っている訳では無く、ただ単に同じ部活をしているだけのくせに。なんか、やだな。なんだか胸の裡がモヤモヤしてる。
「あれみっちー、どしたよ気分悪い?」
と、カナが心配そうな顔をしてくる。どうやら気づかないうちに怖い顔してたみたいだ。私は深刻そうに、
「…ん、いや、ちょっとアレが辛くて…」
「あー…まぁ重い日はキツイよね。無理しないでね」
「ありがと」
と返すと、カナは「じゃね」といって席に戻っていった。

私がなぜ岩波さんに対してこんなにヤキモキした気持ちになるのかというと、一つは中嶋くんが一方的に岩波さんに好意を抱いているのを知っているからだと思う。中嶋くんはそういう素振りを見せないように努めているみたいだけど、私から見たらバレバレだ。声色も普段と違うし、ボディランゲージをみても、普段とは全く違っている。確かに、彼は女の子が得意なタイプじゃないけど、でも岩波さんを見つめる眼差しだけは、一線を画すような、熱っぽい眼差しをしてる。…ような気がする。でも、岩波さんはそれを知ってか知らずか、彼に対して良いように頼みごとを押し付けたり、意地悪をしたりしている。そんな二人のイチャイチャな様子がどうしても私の視界に入ってきてしまう。
そして、その岩波さんはというと、色んな人と取っ替え引っ替えで交際しているという噂を聞いたことがある。病的なまでの典型的なビッチだって、そんなふうに周りの女の子は言ってた。それでもなお彼女は意に介さずに色んな人と付き合いまくっているらしい。そのくせ、飽きるのも早いのかすぐに別れてしまうらしく、色んな男子が彼女に振り回されて困惑させているらしい。この前なんて、学年主任の先生と街を歩いている姿を目撃されていたり、またその前は他校の学生や大学生などと一緒にいたりした姿を目撃されているらしい。実は私も、陸上部の舘沢くんやサッカー部のキャプテンの堀井くんと放課後に仲良くしていた姿をここ数ヶ月の間に見ている。どちらもすごくイケメンで、女子人気のある人たちなのに、どうして岩波さんに惹かれてしまうんだろう?そして、どうして長続きしないんだろう。まるで商品棚からとにかく手当たり次第にカゴに入れて、後から購入するのを品定めするような感覚なんだろうか。でも、それは彼女が引く手数多な恋愛強者だから出来ることで、他の人にはマネしたくても出来ないことだから、そういうトコも皆に疎ましく思われている一端な気がする。モテない人とは対岸に位置している彼女の思惑を推し測るのは、きっと私には難しいんだろう。
と、そんな些細なことがぷかぷかと浮かんで、午後イチの数学の授業が全く頭に入ってこなかった。なんでこんなに午後の授業は退屈なんだろう。黒板の上をチョークが擦れる音と、頭のてっぺんが薄くなってる数学教師の、無駄によく通る声のハーモニーがいやに不快に感じた。私は気を紛らわせるために、中嶋くんの丸い背中を眺めながら、その輪郭をうまくハサミで風景から切り抜く妄想をしながらなんとかやり過ごしていた。目の焦点を彼に絞ると、何だか周りの背景との距離感が曖昧になって、彼だけが世界の中でぼんやりと浮かんでいるようだ。あ、あんまり動くと刃先が当たって間違って切れちゃうかもしれないから、少しジッとしてて、中嶋くん。

✳︎

その日、たまたま化学部室の前を通っていた時、私はなんだかその部屋から物音がしているのに気づいたので、化学部室の扉に付いているガラス窓から中を覗いてみた。しかし、誰も中にいる様子が無い。「ん?」と疑問に思ったので、その物音の正体はなにかと思い、少しの間だけ、扉の前に立ち止まって中を覗くようにしていた。ビーカーやフラスコ、キムワイプなどの実験器具が机の上にあったが、どうして不在なんだろうか?不思議に思っていると、対薬品製の保護エプロンをした岩波さんが、隣の化学準備室の戸をガラガラ開けて顔を出してきた。私はびっくりして、「おおっと!?」と間の抜けた声を出してしまった。岩波さんは、「あれ?何かあった?」と私に尋ねた。
「あ、いえ、なんでも無いんだけど、ただ、何か物音がするのに誰もいないから、不思議に思って」と弁明していると、
「あーそうね、こっちでちょっと色々してたから、目を離した隙に沸いてたみたい」
「沸いた?」
「そ。えっと、加藤さん、だよね。中嶋くんと同じクラスの」
と、岩波さんに言われて私は驚いた。まさか名前を覚えてもらえているとは露にも思ってなかった。彼女は愛想もなく、(いや、それが彼女の普段通りの姿なんだろうけど)
「ねえ、せっかくだしコーヒー飲んでいって。今、準備してたところなの」
と促した。

私は実験器具を広げた机の近くのスツールに座り、彼女が一体どのようにコーヒーを淹れるのかを眺めていた。どうやらネルドリップらしく、熱したビーカーを坩堝はさみで掴み、お湯に差した温度計をじっくりと見定めて、適した温度になったのを確認してから丁寧に滞りなくお湯を注いだ。彼女の手にはミトン代わりに、肘まである対薬用の分厚い手袋を嵌めていた。はたから見たらなにやら怪しい混合液を作っている最中にしか見えないだろうな。抽出され重力に従って流れ落ちてくる真っ黒い液体は、この化学室に似合わないアロマを放っていて、私は普段はあまりコーヒーを飲まないのにも関わらず、そして実験器具で作られたという不気味さもあるはずなのに、すごく美味しそうだなと思って眺めていた。そうか、なにか低い音が鳴り続けているのが聞こえていたのは、この化学室の換気用のファンが回る音なのかと今更気付いた。
「次の文化祭で出そうかと思ってるの、化学部お手製のタンポポコーヒー」
と、岩波さんは微笑んだ。
「たんぽぽ?これって、植物のタンポポですか?」
と、煎られた豆のように見えたものを覗いてみたが、そこらへんにあるコーヒーと違いが全くなかった。むしろ、すごく美味しそうだなって思ってたのに。
「すごいでしょ?タンポポの根を採取して、乾燥や焙煎して、あとは美味しい淹れ方を研究してみてたの。大変だったわ、ここまでこぎつけるのに。やっぱり、ちゃんと美味しく飲めるクオリティじゃないと私、満足出来なくて。中嶋くんには色んな場所に行ってもらって採取を任せてたりして、けっこう無理言ったりしたんだけど。あ、タンポポって、春に花を咲かすけど、別に夏や秋でも普通に葉っぱの状態で生息しててさ。しかもセイヨウタンポポは日本の侵略的外来種ワースト100にも選定されてて、在来種の植物の保存のためにも積極的に駆除、というか有効活用をしながら個体数を減らしてくって活動も、健全な化学部の実績としても大義名分が立つっていうこともあるってわけ。あ、これがそのこの学校付近で見られる侵略的外来種をファイルした資料ね!自主制作にしては立派でしょ!カラーコピーしちゃったからインク代がかかりすぎて先生に怒られちゃったりして大変だったなぁ。まぁそんなこともあって、ようやくタンポポコーヒーの完成が見えてきたの。でも私たち化学部って二人だけだからさ、やっぱり他の人からも味について意見を聞いてみたいなって思ってたときに、ちょうど加藤さん、貴方が部室の前で立ち往生してたから、どうせならと思い切って誘ってみたの。さ、どうぞ。冷めないうちに飲んでみてよ」
と、岩波さんは捲し立てるように話した。その気迫にすこしたじろいだ私は、クジラのイラストが描かれたマグカップに注がれたコーヒーを、おそるおそる飲んでみた。
「ん、すごく飲みやすい」
「ね!苦味や酸味はスッキリしているのに、香ばしい薫りはきちんと前面に出ていて、万人受けしそうな良い味になっていると思うんだ。これも、煎り方にこだってくれた中嶋くんのお陰ね。あとで加藤さんからも褒めておいて。コーヒー、試飲してみたけどすごく美味しかったって。アイツ奥手だから、顔真っ赤にしてそっぽを向いたりして可愛げないけど、内心はすごく喜んでくれると思うから」
と、彼女は心から嬉しそうに笑った。いつもはこの子、猫被ってたんだ。普段の澄ました雰囲気とかけ離れていて、この化学室の中にいる彼女は、まるで遊覧船の周りを泳ぐ悪戯好きのイルカみたいに、快活そうにみえた。校内で見かける普段の印象からは全く違ったその姿を見ると、私の中の岩波さんの実像と虚像が二つ重なってみえていて、この子は本当はどんな子なんだろうかと純粋な好奇心が湧いてきた。
「ねえ岩波さん、ちょっと、聞きたいことがるんだけど」
と、かわいらしい鹿のイラストのついたマグカップを握ってコーヒーを堪能していた岩波さんは、まっすぐに私の方を見てきた。透けるように綺麗な瞳の、その真ん中に私の姿が写ってみえた。すごい、きれいだと思った。
「なに?」
「あのさ、この前ね…」
「うん?」
「…えっと…」
と、言いたかった言葉が口元で躓いてしまって、上手く前に出てきてくれなかった。彼女のことに関して色々なことを聞いてみたいと思っていたのに。私の言いたかった言葉は、どうやら地面をコロコロと転がって、手の届かない仄暗い物陰に入ってしまったようだった。しかも、先ほどから何だか後ろめいた気持ちがもくもくと広がって、急に湧き出た暗雲がニワカ雨を降らせそうな空模様になってしまった。口の中は苦い味でいっぱいで、そして辺りにはまた換気扇の廻る低い音だけがやけに大きく聞こえる。なに調子のってんだ、私。そんなの聞けるわけないじゃん。岩波さんって、もしかして尻軽なのだとか、周りからはビッチって呼ばれてること知ってるかなとか。すると、鹿のイラストのマグカップをコトリと置いた岩波さんは、
「加藤さんは、シロバナタンポポってみたことある?」と別の話題を振ってくれた。
「シロバナタンポポ?」
「そ、白い花を咲かせるタンポポで、日本在来種なの。昔は関東より南の方の、主に関西や四国、九州地方にしか分類してない種類って言われていたんだけれども、ここ数年の温暖化の影響なのか、私たちの学校の中庭の花壇の近くにも生息してるんだよ。ま、育てている訳じゃ無いから勝手に生えてきているんだけどさ。まだ私が観測出来ているシロバナタンポポの個体は、ニホンタンポポやセイヨウタンポポの数には圧倒的に少ないんだけど、それでもちゃんと一定数は存在している。まあ、そんな白いタンポポなんて世間一般の人はぜんっぜん知らないから、きっとそれを見てもタンポポだって認識出来なかったり、違う植物だって勘違いしてしまうのかも知れないけど。植物に興味のない人たちからしたら、どれも同じ植物なのかも知れないけどさ、きちんと理解ある人たちが見守っていかないといけないのかもね」
「…う、うん」
「なんかさ、私たちも、そんなシロバナタンポポみたいな存在なのかもね」
「うん?」
と、話をしている最中に、化学室の扉がガタガタと開いて、中嶋くんが「うーす」といって中に入ってきた。
「あ、ようやく来た中嶋くん、遅いよ!」
中嶋くんは大きめの買い物袋のような麻のトートバッグを持っていて、何だか土の香りがする。中嶋くんは、
「あれ、加藤さんがどうしてここに?」と驚いた様子で言った。
「さっき廊下で見かけたから、ぜひコーヒーの味見を手伝ってもらってたの」と岩波さんがフォローしてくれた。私は物恐しながら、「あ、お邪魔してます」と声をかけた。中嶋くんは若干どもりながら、
「だって、岩波さんがまだまだ採ってこいっていうからさ、近所の公園まで行ってタンポポ引っこ抜いてきたんだけど…」
と言って、トートバッグの中から園芸用シャベルと軍手とビニール袋に入っている大量のタンポポを取り出した。軍手は土で結構汚れている。そういえば中嶋くんの爪にも少し土が詰まっているみたいだった。スラックスが右足の方だけくるぶしくらいの高さまで捲られたままになってて、ちょっと可愛い。
「お疲れ様、結構たくさん取れたんだね。とりあえず洗うもの洗って、あとは乾燥させておきましょ。これだけあれば文化祭出店用に十分足りそうだし、残りは明日以降に作業することにして…」
と、岩波さんはポンと手を合わせて、「そういえば私用事があったんだった、あ、もうこんな時間だ急がないと」とか言いつつ足早に帰り支度を始めて、「ごめん後片付けよろしくね。じゃ、お疲れ様」と言って帰ってしまった。「あ、ちょっと、岩波さん」と中嶋くんが言う時にはもう姿が見えなくなっていた。
「あー…帰っちゃったね、岩波さん」
「…うん」
と、中嶋くんはちょっと機嫌を損ねた感じで実験機材やタンポポやシャベルなどの洗い物をそそくさと片付けようとしているのを見て、
「あ、私も手伝うよ」と私は言った。
「えっ。いや、別に良いんだ。一人でもできるから」
「いや、岩波さんにコーヒーもご馳走になったしさ、それに二人でやった方が早く帰れるでしょ」
と言いつつ、無理にでも手を動かして片付け始めさせてもらう。きっと中嶋くんは押しに弱いし、断ることはないだろう。
「ん、ごめんね加藤さん。気を利かせてもらって…」
「いいのいいの。ほら、作業分担ね、こっちの洗い物はしとくから、中嶋くんは実験器具とかしまってきて」
「わかった」
と、計らずとも私と中嶋くんは二人きりになってしまって、あれ、なんかチャンスなのかもとか思ったり、いや、でも特別な何かが起こるわけでもないんだし、変に意識しなくても良いんだよね。なんか緊張してくる。どきどき。
「中嶋くん、あのさ…」
「…ん、なに?」
「この後さ、ちょっと話したいこともあるし、途中まで一緒に帰ろうよ」
と、私が喋ったあとの、頼りない空白。いじらしい束の間の沈黙の後で、彼は言った。
「わかった」

✳︎

私から見た化学部の印象は、二人は何か見えない糸みたいなもので、合わせ縫いされているかのように一緒にいるなと思っていた。それはきっと理屈とか常識とか、そういったものから離れた、測れない何か…。理解の範疇を超えたものが、きっと二人の中には存在するんじゃないかなとか、勝手ながら思っていた。
しかし、こうして私の隣を自転車を押しながら歩く中嶋くんと一緒に下校していても、特別な何かを感じるわけでもなく、彼はただの年相応で内気な青年だった。そして今日話してみた限りでは、岩波さんはただの化学オタクだった。
「ねえ、中嶋くんはどうして化学部に入ったの?」
と私が聞くと、中嶋くんは「うーん…」と唸りながら、空を見上げた。赤いトンボが目の前を横切って、半袖の制服の二の腕が少しだけ肌寒く感じた。これからちょっとは涼しくなるんだろうか、それともまだまだ暑い日がぶり返してくるんだろうか?あ。いま、ちょっと鼻の先が痒いかも。
「こんな事言うと笑われるかも知れないけど、実は俺、岩波さんが好きなんだ」
「えっ」
私は面食らった。中嶋くんが、まっすぐに私をみてた。そして、少し恥ずかしそうに顔をそらした。
「あー…やっぱりそうだったんだ!なんかね、はたから見ててそんな気がしてたんだよねー。中嶋くんて、わかりやすいよ結構」
と、私は動揺しているのを隠すように、言葉を繋いだ。なんとか言葉の接ぎ穂を探して、「まーそうかー岩波さんかー」とか「ふーん、あ、でもこれオフレコにした方が良いよね、他の人には言わないでおくからさ」とか、手当たり次第に辺り一面に散らばった言葉の破片をかき集めて、できる限り沈黙を挟まないよう尽力した。でも、ちらっと見た中嶋くんの表情が、真剣なままだったから、私はどんな表情を作っていいのかわからなくなってしまった。何、テンパってるんだろ私。ばかじゃん。口から「そっか」って言葉が、重たいため息と共に落ちてきて、そして少しの沈黙が続いた。カラカラっていう自転車の車輪が回る音と、地面を擦るローファーの音。二つの薄く伸びた黒い影。
「でもさ、たしか岩波さんって、色んな人と付き合っていたよね。今日だってさ、お昼にきたの、隣のクラスの木島くんだったよね。彼も確か、岩波さんと最近付き合い始めたって聞いたけど」
「それ、もう別れたんだって」
「えっ、まじ?そうなの?」
「うん」
こういうのって、なんて返したら良いんだろ?深く聞いても良い話なのかな?私が質問に逡巡していると、中嶋くんは話を続けてくれた。
「ポリアモリーって言葉、知ってる?複数の人と恋愛したい人のことなんだけど、岩波さんも、きっとそういう人なのかもって言ってた。同時にいろんな人が好きになって、色んな人と付き合える人。でも、別に性的な関係性になりたいわけじゃないらしくて、ただただ色んな人と恋愛ごっこ遊びをしていたいみたいな。でもさ、相手はそういうわけにはいかないじゃん。普通の恋人関係だったら、相手が色んな人と同時に付き合うことに賛同するわけないんだし、文句も言いたくなるだろうし。それに、せっかく付き合っているんだったら、そりゃ、距離を近くしたくて手を繋いだりとか、キスしたりとか、そういうスキンシップ的なことを求めたりもするだろうし。でも、岩波さんはそういう普通を求めていないんだ。だから、きちんと周りの人から理解してもらえなかったり、純粋に体を求めてくる人は面倒臭くなって振っちゃうんだって言ってた。で、今日のお昼もそういう相談をされたんだ。木島くんが、隣のクラスの連中を引き連れて、「一体どうなってるんだ」って。岩波さんてさ、別れた人とは徹底的に距離を置くし無視するから、相手も話にならなくて困惑して、そしてたまに俺のところに相談しにくるんだ。でも詳しく説明するのも面倒だから、「岩波さんは手を繋いだりとかキスしたりとかがダメな人らしくて、そういうの無理に迫ったりしたから嫌われたんじゃないかな?」ってだけ説明してるんだけど。でも相手はそれだけじゃ納得してくれなくてさ、俺を介して「もう一回チャンスをくるよう頼んでくれよ」とか行ってくるんだ。まあどうせ無理なんだろうけど、でもとにかく「うん」って同意しないと長くなりそうだから、適当にはぐらかしておくんだけど。でも、今日は流石に長かったね。まじ迷惑だった」
「そ、そうなんだ」
「変わってるよね、岩波さんて」
「うん」
「…」
「…でも、中嶋くんは好きなんだよね。岩波さんのことが」
「うん」
全くの迷いがない返答だった。だから、聞かずにはいられなかった。
「どうして?」
「…どうしてって言われても、答えるの難しいよ。気付いたら好きになってた。そう答えるしかないじゃん」
「うん、そうだよね…でも、そこまで岩波さんのことを知っていても、それでも好きなんだなって思って」
「そんなにおかしいかな?実は俺、子供のころはすごい駄々っ子だったんだ。欲しいものとかあると、周りに迷惑をかけちゃうくらい親に泣きついたりしてさ。今では落ち着いているけど、でも、きっとその名残りみたいなものもあるんだと思う。どうしても彼女の元から離れることが出来ないんだ。岩波さんはこの世界に一人しかいないというか、俺にとって代わりになる人がいないんだ。代替できない存在。こういう言い方するのはおこがましいかも知れないけど、俺にとって、この世界の女性が、岩波さんかそれ以外かの二択でしか見えてないんだ。だから、岩波さん以外の人とは付き合う気持ちにはならないし、付き合う意味が分からない。時間の無駄みたいに思えてしまうんだ。人生経験とか、付き合い始めたらその人の良さみたいなものがわかり始めるとかアドバイスされることもあるけれども。頑固なのかな?でも、どうしてもそうなんだ。どう頑張っても気持ちを変えることが出来ない」
色んな人と付き合えるポリアモリーの彼女と、その人としか付き合いたくない一途で硬派な彼という、まるで磁石みたいにお互いが対極に位置するからこそ、彼らは一緒にいられるんだろうか。ふと、彼はとある民家の軒先に咲いてある紅い小ぶりな花を見上げた。ポップコーンみたいに咲いているその花を見上げている、彼の横顔を私はジッと見ていた。彼の顎のところに小さな赤ニキビが見てとれた。思われニキビだなって、ふと思った。
「じゃあ、ずっと辛いんじゃない?」
「うん。そうかも知れない」
「…そうかもしれないじゃなくてさ」と、私の語尾は少し強くなってしまった。私は続けた。
「なんか他人事みたいに言うけど、今の状況で満足しているの?中嶋くんが岩波さんの一番近くにいるのに、何もしていなくてもいいの?そんなんだから、また岩波さんはまた違う人のところにいっちゃうんじゃないの?そして、そういうのを繰り返していくうちに、いつか取り返しのつかないことになるかもとか思わないの?」
「分かったような口きかないでよ」
と、彼は静かな口調で、でもはっきりと拒絶を表していた。「…ごめん」と彼は続け様に素直に失言を詫びた。
「わ、私こそ、ごめん。…なんか偉そうに、自分のことを棚に上げておいて、他人に対しては強く助言しちゃって。嫌な奴だよね、私って。ははっ」
でも、こういう気持ちにさせたのは、中嶋くんのせいなんだ。中嶋くんが、私の気持ちには全然気づいてくれなくて、そして遠回しにも、たった今フラれたから。そんなの、私だって、悲しいし、辛いんだよ。でも、気を利かせてあげているのに、そういうことに対して全く気付かないんだ。そして、自分だけかわいそうみたいな顔ばかりしているから…。あ、どうしよ、泣きそうになってきたかも。
気付いたら大通りのアーケードをぬけて、もう駅前のロータリーのところまで来てしまっていた。彼はここからバスで帰るし、一方の私は電車だった。別れ際に、私はこう聞いてみた。
「ねえ。私、岩波さんと友達になれるかな?」
中嶋くんはしばらく考えたふりをしながら、私にこう答えた。
「わからない。でも、岩波さんは渡さないから」
それが思慮深そうな目で真剣にそう答えたから、私は少し噴き出してしまった。「そっか、じゃあね」と言って私は彼と別れた。ウケる。中嶋くんは、私に対しても嫉妬するんだ。やけちゃうね。本当に盲目なんだね。それは足がつかなくて、溺れてしまわないか不安になるくらいの愛情の深さなんだろうなと思った。辺りをみわますと、タンポポの種のような綿毛がフワフワと夏の薄暮の光を浴びながら漂っていた。

私は一人、電車の席に座りながらボンヤリと考えてみた。岩波さんも、中嶋くんも、お互いに違う境遇、違う立場にしても、きっとたくさんたくさん傷付いてきたはずだと思った。そんな穴だらけになった彼らの心は、スポンジみたいに、きっとその分柔らかくなっているんじゃないかな。そのぽっかりと空いた心の穴も、中嶋くんの魅力なんだよって伝えたかった。彼の心の歪さも、喪失してぽっかり空いた穴も、私が全て包み込んで愛してあげられたらよかったのに。
彼に対しての愛しい気持ちが、私の頭の中でゆらゆらと漂っていた。私のその淡い感情は、川の水面に揺蕩う一枚の小さな木の葉みたいに、だんだんと穏やかに川下へと流されていった。この小さな木の葉はきっと、どこにたどり着くこともなく、行き着く先も必要としないちょっとした逗留に出発したのだ。気付いたら、私を乗せた電車が発車し始めていた。そしてその小さな木の葉は、いつの間にか意識の奔流の中に飲み込まれてしまって、もう再び浮かび上がってくることは無かった。

終わり

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