【短編小説】雪と虚ろ

(読了までおよそ15分ほどです)

この話は、はっきり言って僕にとってあまり快い話ではない。誰か個人を傷つけてしまうのではと恐れもあり、不安もある。しかし、不特定である誰かを口撃しようという気はサラサラ無いことは名言しておきたい。それでも僕が筆を取ったのは、僕自身がそれを上手く言葉にして喋るのが難しい性分なこと、そしてこれを伝えることに多少の義務感というか、使命感を持っているからかもしれない。あるいは、僕の中に内包している小さな正義感?…失敬、前おきはさておき。

僕が実家に帰省しているという話を聞いた高校の時の同級生である林田淳平は、明日のお昼を一緒に食べようと電話をしてきた。場所は、学生だった当時良く通っていたファミレスだった。僕は久々にあう友人が果たして今どのように過ごしているのか、また、当時付き合っていた彼女と子どもが出来て結婚したという話は知っていたが、その後どう暮らしているのか、直接聞いてみたくなって会う運びとなった。
その日は生憎の大雪になった。二月半ばの僕の故郷は、毎年積雪量が多く、道路には雪の壁が両側に高く積み重なっている。ファミレスを内含したショッピングモールの駐車場も一面ほぼ真っ白になっており、一体どこに駐車のラインがあるのかが判別出来ないほどであった。恐らく本来は駐車スペースであろう場所に車を停めて、またしつこく積もり始めた雪を鬱陶しく踏みしめながらファミレスの中に入った。
フェミレスは外観も中の雰囲気も、当時と特に変わっていなかった。片田舎である地元では特に遊ぶような場所が無くて、出来たばかりのここのファミレスが物珍しくて、サイドメニューとドリンクバーだけの注文で何時間も仲間内でたむろしていたのだ。今考えると学生だったから出来たけど、お店側からすると迷惑な客だったろうな。お金も無いのに喧しく、しかも体格だけは立派な男が大勢居座っていたら、威圧感もあったろう。大人になった今、そういった学生がたくさん群れている場所には一人ではあんまり入りづらいと感じてしまう。幸いにも今の店内には大人しくノートを広げて勉強している学生が1組いるくらいで、あとは家族連れの客ばかりが目についた。今ではそういった学生は少なくなったんだろうか?
待ち合わせの時間になっても淳平はまだ姿を見せなかったので、僕は案内された席でとりあえずテーブルの上にあったメニューをぼうっと見つめながら、帰ったら爪を切ろうかなとか、また今日も雪かきしないとなとか、取り止めのないことを考えていた。
すると、視界の片隅に、店に一人で入ってきた客が見えた。それがこちらへ向かって大股でヅカヅカ足音を立てて歩いてくる姿が、昔のまんまだったから、僕はその人物が淳平だと気づいて、そちらの方向に目を向けた。彼は学生のころから大きなガタイをしていたが、卒業して数年たった今はより一回り大きく見える。学生時代には無かった脂肪が、雪だるまを転がしたかのように体全体に覆われているようだった。
「おう、久しぶりじゃのう、健人」
「あいかわらずだね、淳平は。入ってきた瞬間にオマエだって気づいたよ」
「ガハハ、まあ俺ら地元組はあんまり変わらんかもな、連んでる連中も昔とほぼ一緒だしな」
「元気してた?」
「見てのとおり、体も‘ここ’もビンビンしとる」
と言いながら、がに股の股間の辺りから右腕の握り拳をそそり立たせて笑ってみせた。僕もつられて微笑んだが、淳平の歯がタバコのヤニで汚れて、隙間が黒ずんでいるのが見えて、なんだか心の隙間に冷たい風が吹き抜けたような気分がした。
奥側の長椅子に勢いよく腰掛けた淳平は、着ていたオーバーサイズの灰色のダウンを脱いで隣に置いた。中に来ていた焦茶色のコーデュロイのジャケットからは、昔と変わらずに香水とタバコの入り混じったような臭いが漂ってきた。ジャケットの胸ポケットにはボックスのジョンプレイヤースペシャルが顔を覗かせていた。
「まだ紙タバコ吸ってるんだね」
「当たり前じゃろ。健人はやめたんか」
「僕はやめたよ」
「ホンマか?あんなにヘビースモーカーだった健人が一番辞められんじゃろと皆言うとったのに、意外じゃの?」と、淳平は手で愛用のジッポライターを弄んでいた。
「人は変わるもんさ」
「しかも、今は作家もしてるとかマッツンが言うとったで」
「ま、だからと言って別にエラくなったわけでも賢くなったわけでもないよ。サラリーマンの時と変わらず、安月給で雑務と納期に追われるし。前の仕事の方がやることが決まっている分、楽で良かったよ」
「そうなんか?もっと気楽なもんかと思っとった」
「淳平の方こそ、仕事の調子はどう?そこそこ偉くなったんでしょ?」
「そうじゃ、いうてももう係長じゃからな。いつも時間を見つけてはパソコンで仕事をしているふりしながら、毎日女子社員のお尻ばかり見とるわ」
「はは、そいつは羨ましいな」
と言いつつふざけ合いながら、「注文しても大丈夫か?」と聞かれたので、相槌して店員呼び出しボタンを押した。それぞれ食べ物を注文したのち、お互いにドリンクバーに飲み物を取りに行った。
そして、淳平が昔と変わらずカルピスソーダとメロンソーダを足したもの、僕がコーラとリアルゴールドを足したものを持って来て、二人で笑い合った。
「やっぱりこれじゃのう」
「二人とも学生のときと変わってないね」
「あと10年しても20年してもそのままなんかもな」
「ほんと、そうかもしれないね」
と言いながら、二人でグラスを近づけて、「お疲れさま」と言い乾杯を交わした。

僕に好意を寄せてくれた美香ちゃんは、高校を卒業する前に淳平の奥さんになった。学生の時、僕は男女交際と言うものに対して、すごく慎重であった。というか、はっきり言って臆病だった。誰かと付き合うということの喜び以上に、誰かに注目されたり、茶化されたするのが嫌で嫌で仕方がなかった。逆に、そういったことにあまり頓着せず、取っ替え引っ替え色んな女性と付き合っていたのが淳平だった。僕はそんな淳平のことがある意味羨ましいと思っていた。
学生だった当時、美香ちゃんはことあるごとに、僕との距離を詰めようと画策してくれた。しかし、その努力を僕は上手く汲み取れなくて、逆に無下にしてしまっていた。そんな状況を打破しようと立ち上がったのが、女子から相談を受けた淳平だった。なんとか僕らをくっつけようとして、きっと色んな相談をしたり計画をしたりしたんだろう。その後、美香ちゃんは淳平と付き合うことになっていた。そこにどんな経緯やトリックがあったのかは僕にはわからない。淳平にそんな人心を掌握できる手品の心得があるのなら、ぜひ僕にご教授願いたいくらいだ。いつのまにか、僕の知らぬ間に二人には恋心が芽生えていたんだろうか?
淳平は人付き合いがとことん上手い。誰の懐にも飛び込んでいけるし、色んな人と交友を持てる単純なまでの純粋さがあった。高校入学当時、周りが知らない人だらけで誰にも話しかけてられなかった僕のような人とも、淳平は警戒することもなく気軽に話しかけてくれた。淳平がそばにいてくれたお陰で、僕はクラスとも上手く馴染んでいけたんだと思う。花の周りにミツバチが引き寄せられるように、淳平の周りには自然に人の輪が出来るようになっていた。淳平が居なかったら、僕の高校デビューは悲惨なものだったと思う。本当に、淳平には感謝しているんだ。

そんな淳平は、高校生の時に美香ちゃんを妊娠させた。一度は堕胎させたのだが、卒業する前にもう一度妊娠させてしまった。その時は美香ちゃんも卒業単位を取っていたし、淳平も卒業後の進路が決まっているということで、そのまま結婚する運びとなった。淳平は卒業式には出ていたが、美香ちゃんは卒業前の数ヶ月はもう学校に顔を出さなかった。体調のこともあるし、お腹も大きくなっていたかもしれない、とにかく人前に顔を見せづらかったんだろう。
そんなふうに始まった淳平の家族は、今どんなふうになっているのか、大人になった今になって聞いてみたくなった。子供はもう小学生くらいになっているはずだ。もしかしたら、もう一人くらい子どもが増えているかもしれない。未だ独り身でいる僕にとって、家族を持つ同級生の話を聞くのも、小説を書くのに良い経験になると思っていた。
「なぁ淳平、美香は元気か?子育ては大変なんだろ?」
「ああ、そのことか」
と、僕のことを見下したような、「やれやれ」といった声が聞こえてきそうな嘆息をしながら、「とっくに別れたんじゃ」とニベなく答えた。
「は?別れたって?」
と僕は驚いた。淳平のただでさえ狭い眉間が、軟体な猫すら通り抜けるのが難しいほど狭く険しくなっていた。
「アイツ、結婚前から精神的に不安定になりがちでな。たまにリスカとかするし、過呼吸でたまに病院に運ばれるようになるし、仕事していてもよく連絡が来て家に帰ることになったりで、俺の脚を引っ張ってばっかりでな。元々メンヘラ気味だったけど、子どもが出来てからはもっと酷くなっていったんじゃ。子どもの送り迎えもたまに俺が代わりに行かなきゃいけんかったり、家事も子育ても満足に出来んくせに、なんのために専業主婦させとるんか分からんやろ…。今思い出してもイラつくわ。アイツはクソな女じゃ。体は最高だったけど、性格がダメじゃったわ。そのくせ、いつのまにか向こうの家族から俺のことを悪者扱いしだしたり、アイツの姉さんから「もっと美香のこと見てあげてね」とか言われたり。いやいや、見てケアしてやってるし、それなのに面倒かけられっぱなしなのに!どのツラ下げて物申し取るんじゃって思ったけど、「はい、分かりました」って言うしかないじゃろ、こっちも。離婚するんだったら、慰謝料もとってやりたいくらいじゃったけど、そこらへん向こうのお父さんと話しあって、なんにも取らずに別れることになったんじゃけど、最悪じゃ。アイツの顔をもう思い出したくもない。ま、今ではまた恋人が出来ての、おっぱいもお尻も大きい、エロくて良い女なんじゃ」
僕は視界が歪んでいくような、体がどんどん重力に従って沈んでいくような錯覚を覚えた。それでもなんとか淳平との会話に対し、適度に「へー」「あ、そうだったんだ」「それは大変だったね」とか、気持ちのこもっていない相槌を打った。軽すぎるギアの自転車のペダルを漕ぐように、淳平の話っぷりははまるで重さを感じなかった。
ふと、小学校のミニバス部で鋭いドリブルをしてゴール前に切り込んでいく美香ちゃんや、中学の時にクラスの真ん中の班で一緒に笑い合いながら雑談していた美香ちゃんや、高校の時に淳平と一緒に並んで通学してきた美香ちゃんの姿が頭の中にフラッシュバックしてきていた。この活発そうな子が、いつか幸せになってくれたら良いなと、僕は頭の片隅でぼんやり願っていた。
淳平の、汚らしい黒ずんだ歯や、無精髭の目立つ口元とたるんだ顎元、脂肪で膨らんだだらしないお腹、ツヤツヤに磨かれた高そうな時計やネックレスを見ていたら、目の前にいる人間がただの薄汚い化け物のように変わってきた。僕の知っている、青くさいけど憎めない、爽やかな青年の頃の淳平はどこに行ったんだ。目の前のこいつは一体誰なんだろうか。
「じゃあさ、子どもはどうすんの?淳平の方で引き取ったのか?」
「まさか、二人とも、向こうに引き取らせたわ」
「二人?」
「言うてなかったの。二人目が今、美香のお腹の中にいるんじゃ」
「…淳平の子どもだよな」
「当たり前じゃろ。アイツたまにそういうところがあっての。俺は仕事で疲れて寝たいってのに、体を求めてきたりするからの。仕方なしに何発かヤってやったら、また子どもが出来よった。いつも迷惑な時期に子どもを拵えるやつじゃ。高校の時といい、今といい」
「…」
「ま、もう俺にはどうでも良いことじゃけど。アイツは馬鹿でノロマだったし、迷惑かけられっぱなしじゃったらか、いなくなって助かったわ。これで影でコソコソせず、正々堂々と女遊び出来るようになったしの。今度こっちのほうで合コンもあるんじゃが、お前独り身じゃろ?先輩がセッティングしてくれたこの前の看護師との合コンは最高じゃったぞ。やっぱりナースはエロいってホントじゃのう。その日すぐお持ち帰りしちゃっての…」

その後の会話はもう書き起こす気にもならなかった。淳平側からの話だけでは、彼らの離婚までの生活を正しく想像することは難しい。それでも、美香ちゃんにとって本当に真心のある対応を淳平がしていたのかは、大いに疑問に思った。確かに淳平の言うとおり、美香ちゃんに直接的に暴力を振るうことも無く、虐待なんてしていないかも知れない。でも、年嵩になり、高圧的に変化していった淳平の態度を眺めていると、沸々とした疑念が自分の中に湧いていた。どうして淳平はあのときと変わらないんだろう。学生の時のまま停滞している単純な思考は、大人になったら歳とともに少しずつ思慮深く改善されていくべきなんだ。利己的では無く、利他的な部分も持ち合わせていかないといけない。相手の考えや気持ちの機微を、上手く汲み取れるようにならないといけない。まだ未熟すぎる僕が言うことでは無いかもしれないが。学生のノリのまま、その場に停滞するというのは、実は後退していることなんだよ、淳平。
「美香の考え方が間違っているのに、なかなか譲らないからの、最終的には叱りつけないと、言うことも聞けんようになっての。俺も大変だったんよ」
怒鳴ることは、相手を萎縮させることだ。自分の言い分を通すための、子どもじみたやり方だ。そんなこともわからないのか、淳平。それは会話じゃない、言葉の暴力だよ。そんな言葉が口元から溢れて出かかっているのに、僕の臆病さが、喉の壁に釘刺しにされたように出てこなかった。頼んだチキンカツ定食が、どんな味だったのか思い出せない。

「どんな時でも、自分が幸せなんだと思い込んでいたいのよ」
子どもを連れていた美香ちゃんと、たまたまスーパーでばったり出会した時、彼女はこう言っていた。
「自分の置かれた立場や境遇なんて、上手く客体的には見れないからさ。だから、どんな時でも、自分は幸せなんだって、そう言い聞かせて、思い込んでいたいの。たとえあの人の愛がもう枯れてしまっていたとしても、それでもいつかまた幸せだった時みたいに、戻れるんじゃないかなって。そんなふうに何度も期待をして、期待して、傷付けられて、私なりに頑張ってみたんだけど…でも、もう疲れちゃった」
「…そっか」
「ねえ健人くん。まだ独り身なんでしょ?私、また相手を探さなきゃいけないけど、健人くんみたいな良い人が、まだ独り身で残っていると思うと、なんだか救われた気持ちになるよ」
「僕はそんなに良い人間じゃないよ」
友人の一人に対し、説教することも出来なかったし、君の幸せを願いながらも、結局何も出来なかった。マヌケな偽善者だよ。そんな自虐をしたところで、果たして許してくれるわけでもないだろうし、君は僕のせいにするわけでもないだろうけども。
「美香ちゃん、きっと、次は幸せになってね」
「うん、ありがとう。健人くんも」
「うん。じゃあ、またね」
こんな形でしか本心を伝えられない僕を許して欲しい。本当に、君の幸せを願っている。
学生のとき、僕は数学が一番好きな教科だった。数学は、いつも答えがバッチリと解き明かされる。単純明快だ。でも、この世界で生きていくと、果たしてどれが正解だったのかがわからないことだらけだ。僕はまた何もわからないまま、答えなんて出せないで部屋に帰っていく。冷たい風に吹かれて、胸の奥がシクシクと染み入るような小さな傷を抱えて、今日もあやふやなまま、みんな自宅へと帰っていく。いつしか、この積もり積もった雪が溶けていくことを願って。

おわり

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