【短編小説】冷たい餞別

(読了まで45分ほどです)

※本作には若干のセンシティブな表現が使われています。苦手な方はご注意下さい。

その日、深沢ワタルは奇妙な夢に起こされた。その夢はまるで何かを啓示をしているかのような心持ちがした。しかしそれは、ぬめぬめした爬虫類の尻尾をうっかりと掴んでしまったように、とても気味の悪い夢だった。夢から醒めても、まだその自切した体の一部がその手中に掴まれたまま残っているように、夢見の時の嫌な感情がはっきりと身体に残っているように思われた。ここ数年は悪夢にうなされることが無かったのに、もしかして最近出会った幽霊と何か関係が有るのではと憶測されたが、豆電球が点きっぱなしの薄明るい部屋は、どこを見渡しても霊の気配は感じ取れなかった。
その夢の中で深沢は、何かに雁字搦めにされて身動きが取れなくなっていた。そのような状況の中、巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされた太いロープを必死に上へ上へと攀じ登り、しかしある程度の高さまで登ったかと思えば、その身体を投げ出すようにこちら側の、深沢のいるあたりを目掛けて飛び込んでくる人影がいたのである。深沢はそれを見ながら、「なんて無謀なことをするんだろう、そんな高さから飛び降りるなんて、下手したら死んでしまうぞ!」と心の中で思い、落ちてくる人間の身体をなんとか救うべく受け止めようと身を固くした瞬間に、その夢から目を醒ましたのだった。
枕元の蓄光性の時計から時刻を確認すると、まだ朝の3時過ぎであった。金曜日である今日は、朝の一限目から講義が入っているため、もう一眠りしておかないとと深沢は思った。先ほどまで見ていた夢の仔細を意識の彼方に放肆し、とにかく目を閉じることにした。そして最近付き合い始めた坂井アカネと、金曜の一限目は同じ講義を選択していたことを思い出しながら、その時にどんな話をしようかと想像し、気まぐれな睡魔がうまく意識の帷を引いてくれるのを待った。
そして再び寝静まりそうになった瞬間に、低い音を立てて何かが振動している気配がした。まどろみにある微かな意識の中でその振動が止むことを待ってはいたが、その呼び出しは無慈悲にも収まる気配がなかった。深沢はほとんど無意識の中で机の上に置いてある携帯電話に手を伸ばした。こんな非常識な時間に電話をかけてくる、迷惑千万な人間の名前を確認するため、重たい瞼を辛うじて開け、細かい針のように網膜に刺さる光を放つディスプレイの液晶画面を見た。表示していた名前は篠田レイだった。それが愛しの彼女の坂井では無かったのが残念であったが、サナギから羽化し始めたセミのように右の瞼をペリペリとこじ開けて、仕方なく通話ボタンを押した。
「やっほー」
聞こえてきたのは暢気な声だった。
「…あ?」
「あれ、もしかして寝てた?」
「…あぁ…」
「でも、起きがけでもやみくもに怒ったり怒鳴ったりしない。そんなところも素敵だよ、深沢クン」
「…早く用件をいえ、さもなくば切る」
「とりいって大事な話なんだけどさ」
と、篠田は言ってひと呼吸をおいた。
篠田が深夜のコンビニでバイトしているのを深沢はあらかじめ知っており、おそらくそのバイト終わりのテンションのまま電話をかけてきたのだろうと推測された。篠田はさも出し惜しみをするかの如く、たっぷりと仰々しく行間を開けたのち、
「…わたしたちの夜が盗まれたの。だから、取り返しに行こう」
「…は?」
「だから。わたしたちの夜が、誰かの手によって大きな袋に詰められて盗まれてしまったみたい。で、その袋の綻びを見つけ出して、その隙間からそっと忍び込んで、わたしたちの夜を取り戻さないといけないんだ。…私が言っている意味、分かる?まるで他人事みたいに聞こえるかもしれないけれど、深沢くんと私なら何とか出来る。きっとね。今の深沢くんは覚えていないだろうけど、私の言っていることが分かるようになる瞬間が、そんな出来事が、近い将来におこるはずだよ。だから、決して見失わないで。わたしたちは数ある人類の中から選ばれた…」
と、まるでゲームかSFかを傾倒し過ぎて頭がおかしくなってるようなことを滔々と語り始めたようだと感じると、深沢はとりあえず通話終了ボタンを押して意思表示した。手にした携帯を机に置いて、頭の位置を直して、携帯を持っていたために寒くなった肩口に布団を掛けてもう一度寝るための佇まいを直した。
つかの間を置いて、また携帯電話が鳴り出したので、たっぷりと逡巡してから深沢はもう一度通話ボタンを押した。
「ちょっと!勝手に切るのよくない!」
「電波が良くなかったみたいだ」
「5Gのこのご時世によく言うよ」
「で、ホントになに?」
「ちょっと行きたい場所があるの」
「一人で行ってこい」
「この薄情もの!」
「俺は明日早いんだ」
と言うと、躊躇いの時間を置いて、急に篠田は黙り始めた。そして、
「…深沢くんが来るまで、公園で待ってるから」
とだけ言い残して、通話が終了した。

10月半ばの夜は十分に寒く、深沢はスウェットの上に大きなジャケットを羽織って部屋を後にした。学生の住むような安普請のアパートばかりが軒を連ねる閑静な住宅地のため、辺りは声を潜めたように物音も雑踏もなく、雲の少ない天空には多くの星たちが、悪戯好きの子どもが遊び散らかした後のように乱雑に散らばって見えた。そしてその中に、篠田の飛び出した八重歯によく似た形をしている月が、居心地の悪そうに空の低い位置に顔を覗かせていた。それを見た深沢は、時折見せる篠田の、屈託の無い笑顔を頭の中に思い描いていた。
吐く息はまだ十分には白くはならないが、あれだけ猛威を振るっていた夏の気配はもう過ぎ去ってしまったようだった。そこらじゅうに蝟集していた羽虫やカエルの鳴き声はどこかに行ってしまい、春にあんなに綺麗な花をつけていた桜の木には、淡い黄色や赤の薄汚く枯れ始めた葉っぱがついているだけだった。早く終わって欲しいと願っていた今年の酷暑が、一旦過ぎてしまうと寂寞の気持ちを生むのは一体何故なんだろうかと、深沢は感じていた。夏の間に林立した青い雑草たちがいつの間にか色褪せて、先日まで綺麗だった花たちも萎れて枯れ落ち、そこから乾いた種子を撒き散らす準備に取り掛かっていた。

待ち合わせの公園のブランコに、ほぼ真っ黒いカラスのような影が一つ見えた。篠田は大きすぎるジャケットの裾越しにブランコの取っ手を掴みながら、身体を充分に仰がせて星空を眺めていた。その篠田が着ている無駄にオーバーサイズな真っ黒いジャケットは、どこからどう見ても男物で、深沢はそのジャケットを彼女がどうやって手に入れたのか、その経緯を揣摩憶測して、なんだか少し不機嫌になった。篠田は深沢の姿を認めると、
「あ、深沢クン。ようやくお出ましだね」
と言った。
「あのな、こんな時間に健全な大学生は起きてねーんだよ」
「そ。…でも、来てくれた」
「…ああ」
「あんがと」
と篠田は言ったあと、ジャケットのポケットから何か取り出して、深沢の方に放り投げた。深沢は咄嗟にそれをキャッチして何かを確認すると、手のひらに収まるほどの小さな紙パックに入った日本酒だった。
「それ、今日のおだちんね。多分いっぱい歩くことになるから、それで水分補給しなよ」
「はぁ。これで?今時こんなの好きで飲むやつなんているんかね」
と疑問をぶつけてみたが、彼女は先ほどまで地面に置いていた日本酒パックを持ち上げてみせた。飲みかけのストローが挿さっていた。
「わたし、2本目だけど?」
「あ、さいですか」
そうしている間にも、篠田はストローを加えて一口啜っていた。街灯が遠くにあるため顔色がわかりにくかったが、目元の辺りがほんのりと赤みを帯びているようで、どうやら結構酔っているように見える。アーミーグリーンのニット帽からは、毛先のパサついた焦茶色のボブヘヤーが覗いてて、口元は大きな紺色のマフラーによって顎の半分ほどが隠れていて、彼女の表情はあまり読めなかった。深沢は兎に角、その紙パックの日本酒にストローを挿して一口飲んでみた。飲み口がムダに辛くて、鼻先にツンと抜ける強いアルコール臭がどうにも苦手で、思わず顔を顰めた。
「それ、めちゃくちゃ不味いでしょ」と篠田が笑いながら言う。
「知ってる」
と即答すると、「ふふっ」と口の中で飴玉を転がすように笑いながら、篠田はブランコから立ち上がり言った。
「さ、行こうぜ。わたしたちの夜を取り戻しに」

今の深沢の心は、心許ない吊り橋が風に吹かれて大きく揺れているみたいだった。慣れない一人暮らしをなんとか克服し、軌道に乗り始めた大学生活も2年生の夏が過ぎて、これから初めて出来た同級生の彼女、坂井アカネとの楽しい恋人関係を思い浮かべていた矢先に、ふとしたキッカケで出会ってしまった篠田レイの存在は、次第に彼の中で大きく膨らんでいっていた。そして、些細なことで左右に揺らいでいる自分の心が、果たして今どちらの女性に比重が傾いているのかが、自分でも測りかねた。もし心の重さを測ることが出来るのなら、自分の気持ちは今一体どちらに多く傾いているのかを正確に知りたいと深沢は感じていた。お淑やかで普段から迷惑をかけまいと気を揉んでくれる良妻賢母な彼女の坂井を一途に大切に思い続けていられたら良いと思う反面、こうして唐突に面倒事に巻き込んでくる篠田の、その放埒な態度も彼の心には新鮮で心地良いものだった。もし出来ることなら、色んな物事が曖昧なままで、どちらとも良い距離感で、心地よい関係を築けていけたらと良いなと、半端な気持ちのまま楽天的にこの時は考えていた。

県の内陸を背骨のように縦に貫く大きな国道4号を避けて、北上川を横断する橋を二人は渡った。雑木林沿いの歩道には、細長い松の枯葉が絨毯のように側溝近くに吹き溜まり、たまにカツラの木の甘い香りが香ってくる。乾燥気味の空気は澄んでいて、それはどことなく新鮮で硬質で、清々しさを感じさせた。篠田の向かおうとしている先は、殷賑する街並みからその姿を隠すように、まるで人目の付かない場所に向かっているようだった。
篠田は最近あった嫌な客の態度の真似や、勤めているコンビニのバイトリーダーの意気地の悪さを愚痴りながら虚空に悪態をついたり、時折気の毒な小石を見つけては蹴り付け、ランダムな運動エネルギーを与えることに集中しながら歩いていた。
「幸せなSNSとか見るだけで吐き気がすると思わない」と篠田は言う。そして矢継ぎ早に、
「だってコイツら、なんの考えもなしに社会に受け入れられて、それが正しいと勘違いしていやがる、まるで体温を持った屍みたいな出来損ないばっかりだよね。こういうクソな投稿を繰り返すだけに注力するようなコイツらのいうことなんて、どうせ判を押したらようにどれもこれもおんなじで変わらない。だってコイツらには自分の頭を使って喋る言葉が存在しないから。次第にそうやって訓練されてきたんだ。こういう時はこう返すと人は喜ぶとか、こういうことを言うと嫌われるかもしれないとか、そういうのを何の疑問も無く教えられてきたマヌケな人たち。一見するといい人に見えるけど、中身は出来合いの安いレトルトな言葉ばかり詰まってて、何も問題が起きないように周りに同調し、あるいは同期しながらソツなく呼吸している。何かを主張したいことがあるように見えて、実はそんなものは全く存在しない。見えている世界がまるで、即席のモノばかりで出来ているように思っている。あるいは、即席のものしか見えていないし、信じていない。そんな連中と一緒にいても、本当に時間の無駄でしかないよね。一回性しかない人生を、コイツらはただSNSというツールによって、それを無碍にすり減らしながら、誰かと同じような弧線を辿るだけで満足を得ようとする底の浅い考えを抱えて生きている。わたしは違う。わたしには、わたしたちにしか話すことの出来ない言葉を使って、特別な感情から発露する尊い結晶を、これ以上ザコどもに盗まれたり汚されてしまわないようしっかり守っていかないといけないんだ。わたしの言っていること、理解出来るよね?」
と、煙たげな顔つきで携帯を眺めていた篠田は言った。深沢は、
「そうか?よくわからん」
というと、「わかれバカ!」という言葉と共に、篠田の右拳が深沢の左肩に鋭く突かれた。篠田の中指に嵌められたゴツくて硬い指輪が、嫌にめり込んで肩の骨の芯に響いた気がした。
「瓦解していく世界を少しく予測できないでいる頭の出来が可哀想な人たちとは、わたしは同調することが出来ないんだ」と、篠田は一人ごちて、また気の毒な小石を蹴り付けていた。
「あのさ、幸せっていうのは、何も感じないことなんだとミシマくんが言ってたぞ」
と深沢は言った。
「だれ?ミシマくんって?」
「ミシマユキオ」
「ああ、作家の」
「だから、いいんだよ。そいつらは少なくとも、何も感じなくてもいいくらいには幸せな人生を送ってるってことなんだから」
「はぁ。幸せすぎる世の中は、こんなに馬鹿が増えていくのを許してくれるんかね。きっとこの世界の行く末は破滅だよ、ふぁっくだね」
篠田はため息混じりに言葉をつぶやいたあとで、その吐き出したため息の栄養を摂取するようにストローから日本酒を何気なく吸った。そして「しゅぽ」っと言う音を立てて口を離して、熟しすぎた果物のような甘い香りのする息を吐いた。深沢は信号機のない歩道を渡るように、会話のタイミングを注意深く見計らいながら、
「そういえばさ、なんで篠田は今、休学してるんだっけ?」
と言葉を差し込んだ。
「あぁ、そういえば言って無かった。ていうか、一年の時はわたしたちまだ全然仲良くなかったし、誰にも言う機会なかったな」
と言いながら、篠田の陰る表情の変化に深沢は気付くことはなかった。
「ねえ、どうして感情には、質量がないんだろうね」
「あー…?答えになってないんだが」と深沢は返したが、篠田は足元の一点を真っ直ぐ見つめ歩きながら話し続けた。
「もし自分の考えていることや感情、想いに質量があってさ、それがきちんと形を持ち合わせていたのなら。そしてそのままの形で取り出せたのなら、たとえそれが一度壊れてしまっても、元通りに直したり、修復したり、あるいは別のもので代用したり出来るのにね」
「…どういう意味だよ」
「…父親が死んだの、去年のちょうどこの日に」

篠田の話は小学生の低学年の時に母を亡くしたところから始まった。それは見通しの悪い交差点で起きた、不幸な交通事故だった。保育園のアルバイトをしていた母は、自宅近くの停留所でバスを下車し、買い物袋を引っ提げて急いで歩道を渡ろうとした。その日は気まぐれな時雨が降っており、真っ黒に濡れたアスファルトは様々な光を吸い込んでいた。保育園のアルバイト用に、いつ汚れても大丈夫な地味な格好は、運転する年配のドライバーの視界には入らなかったのだろう。横断歩道を渡りきるギリギリのところで、スピードを上げた車が母の身体に鋭く突き刺さった。フロントガラスとボンネットに撥ね付けられて、無慈悲に硬く濡れたアスファルトに叩きつけられた母は、頭部の打ちどころが悪く脳挫傷を起こしていた。救急車で運ばれた病院に着いたころには、もはや二度と母の意識が戻ることがなかった。たとえ手術を施しても、これ以上脳の機能を回復させることが不可能であると、病院に辿り着いた篠田と父親は医者に告げられた。それはあまりにも呆気ない、突然すぎるお別れだった。ベッドの上に寝そべる、まだ暖かな体をした母が、もう二度と目覚めることがないのだと聞かされても篠田には到底理解出来なかった。「レイ、おはよう」と、翌朝には起き上がってきそうに見えた。こんなにもまだ暖かい血が流れて続けているのに、母の意識はとうに分水嶺を超えて、こちら側に戻ってくることはなかった。緩やかではあるがしかし確実に、母の身体は破滅に向かって歩んでいた。篠田たちには、それを止めることも、どうすることも出来なかった。母の眠るベッドの横に座って、篠田はただただ過ぎていく時間を気にせずに母の手を取り、その容態を始終眺め続けた。その様子を心配した父に、「少し休もうか」と言われるまで、何時間でも、ずっと母のそばに居ながら、篠田は涙を流し続けた。もし巻き戻せるなら、事故の前まで時間を戻せたら良いのに。なぜ世界は、無慈悲なほど的確に時間を進めてしまうのかが彼女には納得出来なかった。
その事故の二日後の夜に、母は息を引き取った。

それ以来、父と二人だけの家族になってしまった篠田だったが、その後のニ、三年は親戚にも気を遣ってもらい、何とか二人だけで生きていく術を身につけようと必死に生活した。母親を失ったという困難に立ち向かうために尽力して、親子二人はお互いに寂しさを埋め合うように気遣いあった。まるでその生活の全体が、糖衣に包まれたような、穏やかで優しい日々の連続であった。
しかし、父は次第に娘への関心を失って行った。元々娘の世話のほとんどを母に任せきりにして、仕事に打ち込んできた人間だった。そんな父が、慈悲の心だけで娘を支え続け、世話を続けるのは長くは持たなかった。父は自分の寂しさを埋めるように、彼女には知らせずに密かに恋人を作っていた。篠田レイにとって、自由で潤沢な愛情を注がれるべき多感な思春期に、残念ながら親から十分に愛されなかった。無償で受け入れてくれる親の愛情を知らずに育った彼女には、次第に感情の起伏が薄くなっていった。愛情が何かが分からずに、他人に上手く甘えることも、反抗することも出来なかった。ただでさえ父は私を愛していないのに、そのうえ反抗したら、もっと愛されなくなってしまうと感じていた。もっと良い子にしていないといけないと、自分に枷を与え続けた。自分が父に愛されないのは、自分の顔が母にあまり似ていないことも原因の一つかも知れないと感じた。もっと母親に似ていたら、父は私のことを愛してくれたのではないかと思うあまり、自分の容姿を恨んだ。篠田はクヨクヨしてしまう自分の感情が嫌いになった。いつも塞ぎがちで、誰にも余裕がなく優しく出来ない自分が嫌で仕方がなかった。もはや何も感じずに生きていけたら良いんだと、そんな風に思って生きてきた。
父は相変わらず家には帰らずに、恋人との逢瀬にかまけていた。たまに娘を顔を合わせても、どこかよそよそしいやり取りが続いた。そして、そのぎこちなさが伝染するように、篠田も父に対し心を閉ざして行った。父も父で、そんなよそよそしい娘に対して、どのように接していけば良いのか分からなかった。

立ち向かうべき困難は、平等に二人の前にあったはずだった。母を失い、父と暮らす娘。そして女房を失い、娘を一人で育てなくてはならない父。お互いが迎える初めての困難であったし、二人で手を取り合って、しっかり向かい合えば解決していけたかも知れない。もしくは、きちんと客体的に理解出来て、事態を上手く導いてくれるメンターがいてくれたら良かったのに。二人に親身になってくれる親族が、一人でも居てくれたら。しかし、元々実家と疎遠だった父を、親身になって救ってくれる親族はおらず、母方の方にはご両親も兄弟も存在していなかった。その結果、残念ながら父はその困難から一人だけ逃避し、愛情に飢えた娘は、その心の蓋を閉ざしてしまった。ふたりの関係はどんどん頑なになり、歪な形に変形していった。
そんな吹き荒ぶ嵐のような境遇が続いても、時間は正確に刻を刻み続け、篠田は高校生になった。父から携帯電話を買ってもらうと、インターネットという広大な世界を知った。そして、彼女は父からの愛に渇望した心を、色んな男性から癒してもらえる世界があることをその時初めて知った。

「ねぇ、深沢くんの好きな食べ物って、なに?」
と、彼女は話の途中で切り出してきた。まるで雑木林の中から、突然目を丸くしたコジカが車道に飛び出してきたかのような切りだし方だった。
「…いきなりなに?」
「いいから、教えてよ」
と肘で小突かれて、少しの逡巡のあと、何故か忘却の淵のところでギリギリひっかかっていた、母親が何かの気まぐれで作るカルボライスが、幼い頃から好きだったことを思い出した。
「じゃあ…カルボライスかな」
「へー、何だか意外な食べ物が出てきた。お母さん手作りの?」
「そうだね。たまに夕飯に出てきてた。ただ、弟があんまり好きじゃないって言ってから、それから頻繁には作ってくれなかったけど。でも、なんだか思い出に残っててさ」
「ふーん…私は、ハンバーグかな。私もお母さんが作ってくれた、赤血球みたいに真ん中が凹んだ形した、母の小さな手でこねられた、小さなハンバーグ。…でも、もう一度食べたいって思っても、もう二度と食べられないんだけどさ。
一度、父に頼んでみたことがあったの。お母さんが作ってくれたような、ハンバーグを作ってくれないかって。そしたらね、お父さん、馬鹿みたいに悩んじゃってさ。まるで難しい数学の問題を解いているときの受験生みたいに。ここにはどんな公式が当てはまるんだろうとか、どうすれば解までの道のりを描けるんだろうかとか。そんな風に悩んで悩んで、結局出来たのは、焦げてて、味気なくて、パサパサしててすぐ崩れて、お母さんが作るものとは比べ物にならないくらいの美味しくないハンバーグが出来たの。私がっかりしちゃって、悲しくなって、でも勿体無いから仕方なしに食べてたらさ、お父さんがボロボロ泣いてるの。そのハンバーグには全く手をつけなくてさ。私、びっくりしちゃった。お母さんが死んでから、父が泣いた姿を見てなかったのに、突然ボロボロと泣き始めて。「お父さん、だいじょうぶ?」って聞いても、首が赤べこみたいに上下に動くだけで、泣き止まないの。まるで駄々っ子みたいに。私、なんで父がこんなに泣いているのか、全然分からなくて、でもどうしていいのか分からなくて、「美味しいよ」って言ったら、そのまま家を飛び出して行ってしまったの。ほんと、馬鹿みたいだよね。きっと、そのままの足で恋人の家にでも行って慰めてもらってたんじゃ無いかな?今にして思うと、ほんと、小さい男だよね。あの時、父は何を考えていたんだろうね。ハンバーグすら上手く出来なかったことが悔しかったのかな?それとも、お母さんがもう戻って来ないことを自覚して悲しかったのかな?私には、よく分からないや。結局、その日は戻って来なかったから、置きっぱなしになってしまった父のお皿を、寝る前にラップして、冷蔵庫に入れておいたんだけど、二日しても連絡もなくて帰って来なかったから、そのままゴミ箱に捨てちゃった。それ以来、ハンバーグの話題は私も父も避けるようになっちゃった。まるで触ってはいけない腫れ物を扱うようにね。なんだか、ハンバーグを失敗したあの日から、全てが変わってしまった気がする。もしあの出来損ないのハンバーグを、父がきちんと食べて飲み込むことが出来たのなら、家族はバラバラにならなかったのかな、なんて思っちゃった。でも、今でも私は好物だけどね、ハンバーグ」
深沢は話を聞きながら、少し手前を歩く篠田の様子をうかがった。彼女の膝のところが擦り切れたデニムから覗いた剥き出しの白い脚は、何だかひどく傷つきやすそうで頼りなく見えた。そして彼女の話は、断ち切られたように突然ここでブッツリと途切れてしまった。
それから二人は口をつぐいだまま、何も喋ることなく歩いた。風の音が耳元で渦巻いている音と、歩くときの衣擦れと、二人分の足音をひたすら同じようなテンポで奏でるのを聞いて歩いた。歩道の脇に点在する花壇にあったマリゴールドの殆どが枯れていて、まるで長考する将棋棋士のように首をかしいでいた。ふと足元を見ると、小指の先くらいの白い羽虫が、残り僅かな命の中を、地面すれすれを低空飛行しながら横切った。もう季節は冬に近づいているんだと、深沢は感じた。

それから30分くらいは歩いただろうか。道のりは長い坂道に入っていた。篠田はどうやら高台の場所を目指しているようだった。外気はひんやりと深沢の頬を撫でたが、特段寒くは感じなかった。恐らく飲んだ日本酒の酔いが効いているのだろうか、体の芯の部分が発熱しているように暖かく、むしろ外気の冷たさが心地良く感じていた。ずっと歩き続けているのも、この体の温みに影響しているのかも知れない。
空になった日本酒の紙パックを途中のコンビニのゴミ箱に突っ込んで、また二人はポケットに手を突っ込んで歩き始めた。腕時計を見ると、朝の4時半近くを示していた。新聞を配達する原動機付き自転車が、マヌケなエンジン音を聞かせながら横を通って行った。客観的には、俺ら二人は一体どのように見えているんだろうかと、深沢は思った。あまり話すことなく、ただ黙々と歩く地味な色のアウターを着ている二人きりの闊歩は、集団からはぐれて分裂してしまった百鬼夜行の一行のようにも見えなくは無いかも知れないなと考えていた。

ふと、街灯もなくほとんど真っ暗な道を歩いていると、篠田の身体から何か妖気のような、不吉なものが溢れてきているのが見えた。深沢は幽霊だけではなく、そういった人から溢れ出てくる‘気’のようなものも感じ取ることが出来ることに、この時初めて気付いた。彼女の体からは、風に吹かれて舞い上がる白亜のような悲憤の蒸気が、歩くリズムと共に揺れるように空中にふわふわ浮いていた。深沢はそれを眺めながら、彼女の存在が陽炎のように、いずれ風に吹き飛ばされて全てが消失してしまうように思われた。それはあたかも、深沢がこの前に幽霊を見た時の感覚に酷似していた。彼女はもしかしたら自死する覚悟をしているのではないかと、深沢には彼女の心の淵に存在していた思惑が透けて見えているように感じられた。彼女の織りなす重たい沈黙の中に、いくつもの逡巡と迷いが含まれているようだった。辺りにはうっすらと、お香のような煙たくて甘い香りが漂い始めている。彼女が向かう先には一体何があるのかまだ予測は出来ないが、しかし、深沢は何があっても動揺せぬよう、十全に気を引き締めなければと心に誓った。

✳︎

高台にある小さな駐車場を斜に横切って、展望台のように小高くなった場所への階段を登りながら、
「とーちゃーく!」
と篠田は言った。
二人は眼下に拡がる街の景色を眺めた。街灯はあたかも魚卵のようにぎっしりと人工的に群衆しており、夜明けが近いからか、遠くに見える山嶺は紺色のグラデーションのマフラーを巻きつけているようだった。見下ろした街並みの、隙間なく敷き詰められた幾多の民家には、きっと自分の知らない人々の数だけの、掬い取れないほど沢山の人の物語で溢れているのだと考えると、その途方の無さに深沢は圧倒されそうになった。巧みに張り巡らされた空中線が、狡猾な誰かの作為や意図の具現化のように思われた。それぞれの区画に沿って建てられた、計画的な街並みの風景は、それ自体を一つの大きな生命のようにみせており、どっしりと腰を据えて彼らの前に泰然としているようであった。そして、そんな街全体が大きな間違いであるように感じられるのは何故なんだろう。深沢には、この完璧に敷き詰められた街並みというのが、まるで一つの法則によって無理やりに括り付けられているように感じられた。そして、目に見えない法則や不文律を失った瞬間、この街の全てがバラバラにほどけて瓦解してしまうような妄想を頭の中に描いていた。
「どうしてここに来たか、深沢くんは予想出来る?」
と、篠田は言った。
辺りには何か目立つようなものも無く、見通しは良いがあまり管理されていないため、雑草も長らく放置されていた。せっかく街を展望出来る場所なのに、眺望した街の視界の中に、伸びっぱなしになった松の枝葉が視界の半分を覆ってしまっていて、それがもう少し綺麗に枝葉が選定されていたら、ここからの写真映りがもっと良いだろうに。まるで人々の記憶の中からごっそりと取り残されたような、寂しげな雰囲気を感じる場所だった。深沢はしかし、この場所から感じられる肌寒さのような、そして辺りに漂う死者の匂いを確かに感じ取っていた。恐らく誰かがここで亡くなったのだろう。それも、篠田のよく知る人物、友人か、近親か。そしてそれは事故か、事件か、あるいは…。
そこまで推測すると、結論は自ずと見えてきたように思えた。視界の片隅に、花やお供物のお菓子や飲み物が添えられている一角があるのを見つけていたが、しかし、今考えたことをはっきりと言葉にして、それが万一検討が外れて間違えてしまったら、無駄に篠田の心を傷つけてしまわないかと彼は心配した。だから深沢はあえて、さまざまなことに気づいていないふりをしながら、
「わからんが、誰かが亡くなったのかな?そこに花も添えてあるし」
と、花の方を指差しながら言った。
「うん。さっきも話の続きだけどさ、父がちょうど一年前に亡くなったの。ここの駐車場に車を止めて。死因は、睡眠薬の過剰摂取だってさ。車の中には首つりようにロープも積んであったんだけど、それはしなくても済んだみたい。無事に睡眠薬のオーバードーツだけで眠るように死ねたんだね。実際、自殺って首つりが一番確実で、かつ苦痛も少ないらしいって、なんかの本で読んだことあるけど…。あーあ…馬鹿過ぎでしょ。そう思わない?娘一人置いてさ、自分だけって、ほんと、我儘。しかもね、睡眠薬と一緒に飲んでたのがさ、この紙パックの日本酒なの。一個あたり、117円の、クッソ安い、クッソ不味いお酒。笑っちゃうよね。こんな不味い酒が、親父の最後の晩酌なんだよ。生きている時の最後の食事なんだからさ、もっと良いもん飲んだら良いじゃんって。シャンパンでも開けたら良かったんだよ。そして良い気持ちになって、気分良く死んだら良かったのに」
と言いながら、篠田は花が添えられた駐車ブロックの所にしゃがみ、新品の日本酒の紙パックを置いて、少しの間、手を合わせ、そして話を続けた。
「父の死体が発見されましたって、警察から連絡がきた時、さすがに、頭の中がぐちゃぐちゃになって、何も手につかなかった。着替えることも、メイクを落とすことも、ご飯を食べることも、当たり前に出来てたことの何もかも難しくて、ただ呆然と、誰も居ない、しんと静まり返った居間に座り続けてた。時間の感覚もなくなって、辺りが暗くなることにも気づかなかった。お母さんと父親の、その二人分の空白が、思っていた以上に家の中に大きくぽっかりと空いていたみたい。物理的な強い衝撃を受けたときに、身体がバラバラになって立っていられなくなるのと同様に、精神的に強い衝撃を受けても、心がバラバラになって立ち上がれないものなんだと、その時に初めて気付いたよ。もう頭の中もぐちゃぐちゃに散らかった部屋みたいになってて、何をするのも、何を考えるのも億劫になって、何も受け入れられなくなっちゃった。活力という活力が心の底のほうから抜けてしまって、いつものように元気な自分は果たしてどこにいってしまったんだろうって、どうして何も出来なくなっちゃったんだろうって、すごく怖くなった。そんな日々が数ヶ月続いたの。だから、学校には当分行けそうにないですって、親戚のおばちゃんから連絡してもらったの。
もうさ、世界なんて、真っ二つに割れてしまえば良いのにね。私の人生、良いことなんて全然なかった。辛いこととか、悲しいこととか、そういうのばっかり。毎日毎日、静かな冷たい、空気すら動いていない部屋の中にいたら、私はもう、ダメになりそうで…」
そう言いながら、篠田の瞳からは涙が溢れてこぼれ落ちてきた。篠田の中に深く沈潜していた澱のような悲しみが撹拌されて、再び舞い上がったみたいだった。そして溢れかえる感情のさざなみが、瞼という外壁の隙間から滲み出してくるようだった。
深沢は、彼女の身体がバラバラになってしまわないか心配になった。その理由は曖昧で不確かで、彼自身にもうまく説明が出来ないが、彼女の中に存在していた、体を繋ぎ止めている大切な法則や不文律がすでに失われてしまっていて、彼女の美しい四肢が胴体から離れて行ってしまう幻想を見ていた。彼女の身体の繋ぎ目からは白い煙が立ち込めて、放っておけば彼女が瓦解してしまいそうに彼には見えていた。深沢はそれをなんとか留めようと咄嗟に、篠田の身体を出来る限り強く抱きしめていた。それ以上に、深沢はその時どう上手く慰めたら良いのか分からなかった。
彼女は泣きながら、深沢の胸の中でまるで息継ぎをするように呼吸していた。何となく、彼女は色んな人の胸の中で、ゆっくりと息継ぎしながら生きてきたんだろうなと深沢は思った。もしかしたら、この世界の中で篠田はうまく呼吸が出来なくなったときに溺れ死んでしまうのではないかと、そんな風に思われた。深沢の身体の側面に添えられた手は、ずっと固く握られたまま、開くことがなかった。それはまるで、寒さの中で春を待つ蕾のように、じっと何かに耐え続けているように見えた。しばらく時間が立って、呼吸も落ち着いて来てから、篠田は話し始めた。
「もし、今日深沢くんが来てくれなかったら、そのまま一人で死のうと思ってた」
深沢は不意に、夢の中で見た映像が、もしかしたら彼女の自死の啓示だったように思われた。飛び降りる篠田の映像が、頭の中にフラッシュバックする。
「絶対死ぬな、俺が寂しがるから」
と言うと、
「…馬鹿言ってる。私のことなんて、実際どうでもいいと思ってるくせにさ」
「思ってない、だって…」
「…」
「だって…」
その後の言葉が、深沢には続かなかった。自分が今、何を言おうとしているのか、それを言ってしまっても良いものなのか。彼は自分の心の裡が果たしてどうなっているのかが分からず混乱していた。長い沈黙のあとで、篠田が口を開いた。
「…ありがと。深沢くんがいたら、まだなんとか、生きていける気がする」
二人は抱擁したまま長いこと硬直していた。篠田の身体の重さをしっかりと感じたまま、空が次第に明るくなっていく様を深沢は見つめていた。眠気と酔いで、頭の中には靄のようなものがかかっていて、まるで今日の出来事が、夢幻のようにも感じられた。

しばらくした後で、篠田は鼻を啜りながら、
「…なんか拭くもの持ってない?」
と聞いてきた。
「拭くもの?」
「うん、ちょっと…」
「待ってな」
深沢はお尻のポケットの中を探ると、ポリエステル製のマスクが一枚入っていた。それを取り出して、
「これでも大丈夫?」
「うん」
と篠田がいうと、鼻先にマスクを押し当てて、さっきまですすっていた鼻水をそれで擤んだ。
「ふぅ、ちょっとスッキリしたかも」
「あぁ。ならいいけど…」
「返すね」
と言って、無理に深沢の尻ポケットの中に先ほど擤んだマスクを押し込んだ。
「おい!きったねえ!」
「あははは!」
と笑いながら、篠田は深沢に抱きついたまま、深沢の体を円を描くように振り回した。そして、制御不能になった飛行機が墜落していくように、くるくると速度を落としながら、近くにあったベンチに深沢を押し倒すようにして覆い被さった。二人は数秒間、荒い息の中で見つめあったあと、篠田は深沢の唇に、自分の唇を重ね合わせた。それは深沢の経験したことのない、深く長い接吻だった。獰猛な獣のように、篠田の舌が深沢の口腔内に侵入した。篠田から溢れてくる唾液は、先ほどまで口にしていた日本酒のような辛さが無い、むしろ甘さだけになったような味がした。それを口にしながら深沢は「自分は今、喉が渇いていたんだ」と気付かされた。そして、夢中で水を飲んでいるかのように彼女の口から溢れてくる唾液を貪った。ときおり、その口付けの波が激しくて溺れて窒息しそうになった。彼女の口からは、唾液だけじゃなく小さな嬌声も聞こえてきた。彼らには、明け方の街の喧騒や、鳥の囀は耳に届かず、完全な密閉された二人きりの空間の中にいるような心地がした。

✳︎

「父が死んでも、母が死んでも、結局私の手元に残ったのは、死亡診断書とか、火葬許可証とか、住民票とか、保険金の請求とか…。そう言った、血の通っていないような、温度のない手続きの紙ばっかりしか残んなかった。そう言う感情の必要のない、色々な雑務をしなきゃいけなくて、悲しんでる暇なんかないくらい忙しくなって、きっとそうやって多くの人は故人への悲しみを薄めていくんだろうね。誰が死んでもさ、こんな冷たい事務手続きばかりしか、残さないんだなって思うと、全てが空虚に思えてきて、悲しかったな。
この近くにダム湖があってさ、そこが、飛び降り自殺のメッカらしいんだ。この前の夏休み終わりぐらいにも、女子学生が二人で飛び降り自殺したって、地元のニュースにあったみたい。どうせ死ぬんだったらさ、父よりも苦しく、壮絶な方法で死のうと思ってたの。だって、そうじゃなければ、私は父と同じ弧線を辿ることになるじゃん。臆病で、マヌケで、だい嫌いな父と、おんなじ死に方なんか選びたくなかった。父よりももっと、まるで儚い箒星になったかのような死に方がしたかった。でも結局、今日も死なずに夜が終わっちゃった。何度も何度も、明日なんか来なくて良いのにと、こんな醜い世界を恨み続けてきたのに。
私ね、男の人に抱かれている瞬間は、不思議と、何だかゆっくりと呼吸が出来る気がするの。だから、本当に色んな人に抱かれてきた。深沢くんが想像できないくらい、沢山のひと。それが行きずりのナンパな人でも、頭の薄いおじさんだったとしても。誰かの腕の中で、たとえその時その場限りだとしても、愛を感じながら、人の温かさを感じていると、この世界の水面から顔を出して、息継ぎしているような安心感があったんだ。…軽蔑した?パパ活したり、セフレ作ったりしてるような、そんな浮薄で、エレクトリックでデカダンスな女だと知らなかった?はは。普通はひくよね。そういうことをするのが間違ってるのは、重々承知してる。穢らわしいと思われても、仕方ないよね。でも、そんな状況から変わりたいと思っているけど、やっぱり変われないみたい。心が寂しいな、辛いなとか考えると、結局、いつも同じような過ちを繰り返している。グルグルと、同じ景色のところばかりを眺めている。どこにも辿り着くことがないメリーゴーランドか、あるいは観覧車か、そんな感じで、偽りの夢の世界にずっとすがって、日々を生きている。こんな女がさ、深沢くんのことを思う権利なんて、無いのかもね」
と、帰り道の最中、明けていく街並みの中を歩きながら、篠田は言った。
深沢は、その時何と返事をして良いものか、決断を迫られていながらも、どうしても上手く答えを出すことが出来なかった。今付き合っている坂井と、ここで救いの手を待ち望んでいる篠田の、どちらを選んだら良いのか判断が出来ない自分に嫌気がさした。篠田の告白に心が震えて、今にも均衡が崩れてしまいそうなのに、自分の平静さが憎らしかった。暑くもなく寒くもなく、ただ事態が過ぎ去るのを時間の経過とともに待つ自分の嫌らしさを妬んだ。彼に内奥したもう一つの自分自身の、冷静すぎる鳥瞰が、彼をあたかも感情の動きの少ない人物に見せていた。
「そんなこと…」
「…」
「…」
「…良いよ。じっくり考えて。私も、本当に深沢くんのことが好きなのか、それともただ寂しいだけなのか、正直今は、自信がないかも」
「…ごめん。俺も、迷ってるみたいだ」
「…仕方ないよ、大丈夫」
と、篠田は握っていた深沢の左手を、強く握り直した。深沢は、今この瞬間に、坂井を裏切っているという重大な過ちを犯しているとは、その時は考えられなかった。篠田が自分を必要としたのは自明のことであったし、それに答えることで、尊い女性の命を救い出せたことは、自分にとって決して悪いことではないのだと、自分の正義心が言っている気がした。それになにより、篠田に会おうと決心した段階から、何かが起こってしまえばいいのだと、半ばこういったのっぴきならない状況を心のどこかで少なからず望んでいた。むしろ、こういった人を救うという稀な経験が出来たことは、彼の胸に一条の明かりをさすように、美しい一つの思い出として残っていくのではないかと考えて、気分が高揚していた。歩きながら、今まであるいて来た長い道のりを戻るのに、行くときよりも時間が早く過ぎてしまう気がするのは何故なんだろうかと、深沢は呑気に思っていた。
「ねぇ、深沢くん。この後、私の家に泊まりに来ない?慈善活動だと思ってさ。たとえ気持ちがなくても、セックスは出来るでしょ?深沢くんは、したくない?私と」
篠田はそう言って、深沢の手を自分の胸の辺りに押し付けた。まるで、近くの喫茶店でお茶でもしていくような、そんな気軽さを含んでいる彼女の語気に、思わず深沢は、「わかった」と、すんなり口に出していた。
深沢は結局、その日は学校を休んだ。一限目の終わりくらいになって、坂井アカネから不在着信が入っていたが、それを深沢が見たのは、篠田との濃厚な性行為を済ませた後になってからだった。

✳︎

篠田からの連絡は、この出来事があって以降、ぷっつりと途絶えてしまった。あたかも降り始めの雪のように、気付いたら深沢の前から積もることなく消えていた。彼女の存在を把握していたのは、深沢だけだった。彼女は果たして実を兼ね備えた個体であったのか、もしかしたら自分の作り出した幻だったのではないか、非科学的な私恨の作り出す幽霊のようなものだったのではないか。今となっては、彼女が本当に存在していたのかすら、よく分からなくなってしまっていた。
しかしながら深沢の胸の中には確かに、彼女に対しての固い玻璃のような想いの結晶が残ったままだった。そして、深沢はこれ以上篠田のことを考えるのが怖くなった。深さの分からない干潟の中に足を入れるように、気付いたらどこまでも身体が、浮気という泥濘に埋もれてしまいそうだった。そのため彼は、恋人である坂井と、それまで以上に仲良く過ごすことで、その想いを忘れようとした。それはまるで、潮の満ち引きによって砂の城が少しずつ崩されて流されていくように、自分の身体に流れた血潮が、彼の中に隠した思いの結晶を時間と共に徐々に崩れていくのを待つようだった。

深沢はある日、ふと自分の尻ポケットの中から、何か生き物が蠕動するように動いているものが入っているような錯覚を覚えた。気味が悪いが、気になるので仕方なく、そのポケットの中におそるおそる手を入れて、中身が何かを確認してみた。するとその中には、篠田が鼻を擤んだ、マスクが入れっぱなしになっていた。そして、深沢はそのマスクを手に取ると共に、篠田の身体を抱きしめた感触を思い出し、切ない気持ちが身体の中心を貫いたように思われた。彼はそのマスクを、そっと口の中に含んで、味を確かめた。それはまるで、降り積もったばかりの新雪を掬い上げて、頬張ったような滋味であった。

おわり

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