【短編小説】寄居虫

「この話は、正直これを書いている僕も眉唾もので、おそらく誰の目に触れたとしても信じてくれないだろう。僕だってそれを誰かから聞かされたとしたならば、信じることが難しいと感じる。そういう類の話なんだ。

その日はちょうど平日の真ん中あたりにあり、連勤中の僕は夕飯の支度もするのが困難なほどに疲れ果てていた。
もともと一人暮らしには慣れていたため、わりと不自由なく自炊をしているのだが、どうしても残業つづきの日々を過ごしていると、そういった雑事すら面倒になる日がある。髭を剃る手間すら億劫だったし、洗濯機を稼働させるのも躊躇われた。一度座るとお尻から根が生えて、その場所から動けなくなってしまうような、そんな一日だった。
滑車は動き出す瞬間が一番エネルギーを使うものだし、そして一度動き出したら転がっていくのは簡単なように、その日の僕も止まってしまったら動き出すのに大変な労力を必要としていた。そのため、その日は部屋の冷蔵庫の中身を気にしながら自炊するのを諦めて、出来合いの惣菜を安値で売り出すスーパーマーケットに帰宅中に寄り、そこで夕飯の調達をしようと画策していた。

そしてスーパーマーケットで、値引きのシールが貼ってある(残り物の微妙なものばかりだ)惣菜をいくつか調達し、会計を済ませようとレジの列に並んだ。
いつもは値引き品ばかりを詰めた買い物カゴを他人に見られるのが何となく後ろめたい気持ちがするので、そんな時はセルフレジに並ぶことが多かったのだが、その日はセルフレジが故障のため一台しか空いていなかった。そして、そこにわりと長い列が出来ていたこともあって、僕は仕方なしに普通の会計レジの列に並んだ。僕のすぐ前に並んだ女性の後ろ姿が綺麗だったから、というのも理由の一つなのだが・・・。
そして僕は、出来るだけの無表情を顔に貼り付けながらその列に並んで、そしていやらしくならない程度にその美しい後ろ姿を眺めていた。毛先に向かって緩くパーマをかけた長髪を一つにまとめたポニーテールに、華美すぎないようにさりげなく揺れる金色のピアス。世の中にあるオシャレな雑誌は、きっと彼女の為にあるんだろうなと思わせる容姿だった。夏の陽射しにうっすらと焼けた細い首筋を、僕は妙に感心しながら見ていた。

その刹那、彼女の耳の中から何かが飛び出しているのが見えた。初めはそれが何なのかがわからなかったし、あんまりジロジロと人さまの後ろ姿を眺め続けるのも憚られたので、きちんと確認することが出来なかった。きっと新しい、見たことのない形を模したイヤホンか何かなんだろうと。しかし、なぜだか無性に気になってしまった。こちらを見ているような、視線みたいなものを本能的に感じたのだった。
僕は携帯を取り出して、それを眺めるふりをしながら、視線だけは上に持ち上げた。そして、もう一度彼女の耳の辺りを盗み見た。
そうしたら、小さな二つの眼のようなものがこちらを見ていた。いや、見ているというより、耳から体を出してこちらの様子を伺う小さな生き物がいたのだ。大きなハサミ、飛び出した両眼、長い触角。それは彼女の耳の中を寝床とする、小さなヤドカリがこちらを見つめていた。彼女の耳朶を這いながら、その尻尾を耳に入れながら、(おそらくその中に体の大半を渦をまいているのだろうか?)彼女の体を借り住む、おぞましい生き物がそこにはいた。僕はひどく驚き、そして絶句した。そしてそのヤドカリは、僕が体をビクッと震わせると、それに驚いたのか体を丁寧に縮こめて耳の穴の中に後退させて、その姿を隠してしまった。
僕は自分の目を疑った。そんなことが本当にあるのだろうかと。その瞬間から、ヤドカリは彼女の耳から一度も姿を現さなくなってしまった。そして何事もなく会計を済ませたその女性は、すぐさま買い物を終わらせてスーパーから出ていった。僕は、見間違いであってほしいと強く願った。その日は家に帰っても、その彼女の耳の中にいたヤドカリのことで頭がいっぱいだった。そして、いずれ僕の耳にも誤ってヤドカリが入ってしまうのではないかと心配になった。新手の寄生虫か何かかと思って検索したが、そんな事実は一件もヒットしなかった。
それからというもの、僕はいまだに、女性の耳の中を覗くのが怖くなってしまった。そこに何が潜んでいるのかがわからなかったからだ。もし、彼女の耳をのぞいた時、小さな二つの眼がそこから飛び出していたら、僕は正気を保っていられるか凄く不安だった。」

「・・・で、私の耳に何か住んでないかを確認したいってことね」
彼女は僕の長い話をきいてから、うんざりした顔でそう言った。
僕はなるべく深刻そうな表情を作ってから、
「そうだね・・・。あるいは。」と言った。
彼女は、長い長いため息をつきながら、
「バカなんじゃない?」
と冷たくあしらわれたのだった。

おわり

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