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映画「ソナチネ」村川と幸

本筋とはあまり関係ないのだけれど、見ていて気づいたことなど。


見れば見るほど、味わい深い映画

1回見ただけでは意味がわからないところも、繰り返して見ていくうちにわかることもあった。
細かいところでいうと、歓楽街の飲み屋のシーン。
恰幅の良いママが裏から出てきて、電話をかけて店の女の子を呼ぶ場面があるが、これは阿南組を手引きしているのだろう。
サラリーマンの男性3人が入店するシーンがある。初めはこの3人が阿南組かと勘違いしたが、実は裏で張っていた阿南組がママの合図により裏口から入ったのかもしれない。

村川・片桐とケン・良二

上地が琉球舞踊?で踊っているのを見てケンと良二が笑っているその奥で、村川と片桐は深刻な話をしていたのだろうか、神妙な面持ちの二人だ。
背負っているものの違いだろうか。

自◯しようとしていた村川?

自分のこめかみを撃つ夢を見て、一人夜の浜辺で海を見つめる村川。
おそらく、このとき海に入ろうとしていたのかもしれない。

その直後、幸が男に襲われそうになる場面があり、村川は通り過ぎようとするが男が絡んできて衝動的に撃つ。
驚くでもなく、村川を見つめる幸。

このあとの場面で家に戻った様子が映るのだが、奥で寝ている上地をよそに
厳しい表情の片桐がいる。
村川と幸、二人の着衣は乱れているので、男女の関係になったということだろう。

幸に出会ったことで、村川は「死」に自ら突入する寸前のところから、またしても「生」を繋ぎ止めた。 

翌朝、幸は咥えタバコをしながら道をあるいて帰っていく。
通り過ぎる車に対して、村川の口癖である「バカヤロウ」と呟きながら。

別の日、村川が運転する車が道の溝に落ちてしまう場面があるが(村川は「ヘビが出た」といい、後ろで幸がクスッと笑う)、これはおそらく運転中の村川に対して幸がちょっかいを出したことが原因だと思う。

死と生(性)と笑い

この映画が哲学、アート的に感じるのも、変に教科書的な説教じみた話で終わらないのも、北野監督の表現が絶妙だからなのだろう。

海に入ろうと佇む場面で「自分の死」を匂わせ、その直後に男を殺害したことにより「他人の死」を扱い、幸と「性」の関係になることで「生」が生まれる。

彼らにとって、どれも衝動的で簡単な「ヤッちゃう」という表現は同一線上に並んでいることを示している。
ある時は「自身の父親の死」に関しても車中での笑いに転換しているくらい”軽い話”にしてしまっているのだから、なんとも哀しい。

生(性)と死、笑いと悲しみ、これら表裏一体で存在しており、彼らの世界ではそれが顕著だということだろう。
端的でミニマリスト的な表現は整然とした美しさを喚起するが、同時にそこはかとなく物悲しく空虚でもある。


赤いフリスビーを投げてケンを弔う村川

村川のことを慕っていたケン。
(ケンが亡くなる場面のケンの立ち居振る舞いとその理由については他の方のレビューで「なるほど、そうか」と思った。)

彼が亡くなり、一人浜辺でフリスビーを投げる村川。
ケンに対して投げているのだろう。
村川なりの弔いの方法なのかもしれない。
それが広陵とした浜辺に一人映っているので余計に物悲しい。

(ちなみに、ケンが少年ジャンプを読んでいる場面があるが、背景の仏壇の真ん中に位置するように撮られているのは意図的なのだろうか。)


結局最後は自分

やっぱりどこまでも強運というか悪運なので、自分のことは自分で始末するしかない、そう思ったのだろう。
幸が道の先で待っていることを仮に知っていたとしても、村川は同じ結末を選んだのではないかと思う。
タイトル画面の黒トーンに赤文字は「罪と罰」という意味の比喩なのではないだろうか。
血に染めた白シャツの村川、その次のカットに妙に映える幸の真紅の口紅。



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