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くにを的随想集

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エッセイ的な記事をまとめました。 書きたいときに、書きたいことを、書く、と言うスタンスで不定期投稿します。
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#くにを

「自分主義」

何かをしようとした場合、評価の基準は他人ではなく自分に置くべきです。 という事をさらっとブログに書いたのですが、もう少し掘り下げてみようと思います。 自分でコントロール出来ることを目標にする自分がコントロールできることを目標にしましょう。 例をいくつか挙げてみます。 a.「今期の会社売り上げ目標は20億円です」 b.「今期の自分が担当する客先の売り上げ目標は10億円です。」 c. 「テストで上位10位以内に入る」 d. 「テストで90点以上取る」 何となく違いがわか

「〇〇さん、無言の帰宅」って、〇〇さんはどこにいるの?

事故や病気で誰かが亡くなった際、「○○さん、無言の帰宅」と表現されることがよくあります。 ご遺体やお骨が自宅に返ってきた、程度の意味で使われているのかもしれませんが、これって生死に関する結構根源的な問いを含んでいる気がします。 一つだけ明らかなことは、○○さんは既に亡くなっていることです。ですので、 「○○さんの遺体、無言の帰宅」 「○○さんの遺骨、無言の帰宅」 これならわかります。 ですが、 「○○さん、無言の帰宅」 ○○さんは、まるでまだ生きているようです。

伝えたいことを、伝えたい人に、正しく伝える

先日、勉強したいことがあったので、Kindleで本を購入しましたが、思っていた以上に便利です。 何が便利だと思ったかと言うと、文字の大きさを変えられるとか、そんな小手先のことでは無く、落ち着いて読めること。 わざわざ本として買わなくても、ネットで調べればある程度のことはわかるでしょう、と思われる方も多いと思います。 ですが、例えば総文字数80,000字の文章があったと想定してみてください。 一つのWebページに80,000字あった場合、延々とスクロールし続けて読む必要

明日が来るとは限らない

学生の頃からずっと、明日が来るとは限らないと思っていました。元々将来に希望なんか持っていなかったせいもありますが、世の中の多くの人は、どうして明日もあたり前に来ると思っているのでしょう? コロナ騒動の真っ最中だから言うわけではありませんが、明日があたり前に来る保証なんてないです。明日どころか、1時間後だってちゃんと来るかどうかわからないです。 多くの人が無意識に信じていて、私が一番違和感を感じるのが、このイメージです。 いい大学に入って、大企業に就職して、年々給料が上が

「私」は必要?

普段の話題について、私はどうも他人と合いません。 まず、テレビを見ません。見たくないから。 次に、本当に必要な時以外は外出しません。人混みが嫌いだから。 そして、SNSが嫌いです。人間の醜い部分が目に付きすぎるから。 極論を言ってしまえば、自分を含めて、人間が、嫌い。 ですから、他人を信用することは、余程親しい相手じゃないと無理です。 私はあなたのことをほとんど知りませんし、理解していません。 でもそれは私に対してあなたも同じじゃないですか。 努力はします。だけど強要しない

敢えて結論から書きます

ライティング講座とか、ブログの書き方などの解説では必ずと言っていいほど「まず結論から書きましょう」と言われています。あれは一体なぜなのでしょうか。 書く内容によると言う前提のうえで、敢えて結論から書きます。 ネットで流し読みされる程度の内容だからでしょ? アクセス数を増やすために、パッと見て分かり易い文章を心掛けましょう、と言う意味だと理解していますが、どんな形であれ公の場に発表する文章を、そんな小手先のテクニックに頼ってどうするんだと。 たまたま手元にデカルトの「方法

言葉の壁じゃなくて概念の壁

外国語を学ぶ際や、海外と交流する際、「言葉の壁」と言うことをよく聞きます。これは大きく分けて2つの意味があると考えます。 1. そもそも語学力が足りなくて理解できない これは、その通りです。異論はありません。 2. その言葉で語られている概念が理解出来ない 実は語学力が上がれば上がるほど、こちらの壁の方が大きくなります。 多分、乗り越えられません。 では2の「概念の壁」とはどういうことか。 まず、簡単な例で言えば、baseball を野球と言うことについてはほとんどの

社会に貢献しないことで社会の役に立つ矛盾

私、フリーライター(自称)と言い換えておりますが無職です。 本日も自宅に籠って1円にもならない note の記事をひたすら書いております。 全く社会の役に立っておりませんが、コロナ感染拡大防止と言う重大な社会的使命を果たしております。

新ジャンル「くにを的随想集」始めました!

皆さんこんにちは、くにをです。 今までノンジャンルで書いてきた「曼殊沙華編」ですが、あまりにもノンジャンル過ぎるので、エッセイ的なものは別枠に移すことにしました。 名付けて「くにを的随想集」です。 しかし何でしょうね、このあふれ出る中二病感・・・ まあいいんですけど。 過去に「曼殊沙華編」に投稿した記事のいくつかはこちらへ移します。 また、今後新たに投稿するエッセイ的な記事はこちらのマガジンへ投稿します。 それでは引き続きよろしくお願いします。 令和2年4月 くに

使い捨ての言葉たち

先日 Twitter を始めたと書きましたが、見ていると本当に色々なツイートで溢れています。 世の中色んな人がいるんだな、と思う反面、このツイート達はいつか誰からも忘れ去られてインターネットの底に沈んでいくんだろうな、と思うと寂しい気持ちになります。 「今」を伝える、あるいは時事性と言うことと、トランプ大統領のように本人が一次ソースであることは、非常に意味があると思います。 ですが、「今日何食べた?」とか「友達とディズニーランドに来ています!」とか、本人たち以外に取っては

Dance Macabre : 死の舞踏

Dance Macabre : 死の舞踏 中世ヨーロッパで広がった思想の一つに “Dance Macabre” と言うものがあります。 「死者と生者の舞踏行列」などと訳されますが、高貴な者も下賤の者も、富める者も貧しいものも、「死」の前では平等だと言う考え方です。 共同墓地や教会などに、様々な人々、国王・教皇・騎士・市民(ブルジョア)・商人・農民・若者などが死へと誘われる様を描いた壁画や版画が飾られ、その前でキリスト教の説法が行われたようです。 ヨーロッパでは1348年

作品と商品

作品は自己満足 商品は顧客満足

記録を残すことの意味

記録を残すことの意味 阪神淡路大震災や、3.11などの災害は記憶が風化しないよう、記録として残す事が大切だと言われます。災害に限った話ではないと思うのですが、記録を残すことの意味について、少し考えてみます。 以前友人と 「仮に「「人類」が誕生した際に、その当時に生きていた人々が死なずに今まで生きていたとしたら、今と同じような世の中になっていただろうか?」 と言う話をしたことがあります。 二人とも結論としては No でした。 一人の人間が出来る事には限界があります。重