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自粛期間は「しあわせ」についてよく考えた。

ちょっと、月並みな質問から。


「あなたのしあわせってなんですか?」


しあわせとか、もういーよーそういうのー。

って、おもった?
野暮なこと、ごめんなさい。



でもこんな使い古された概念をあらためて考えてみるの、
どうでしょう?



|いままでのわたしは

幸せ = 自由、お金がある、家族といっしょにいれる
そんな感じだった。


もうちょっと欲をかいていえば

・自分でスケジュールを組んで
・好きな仕事をして
・それでいてお金はたくさん入ってくる
・はたらく場所ももちろん自由。だから家族ともいっしょにいれるのさ。


こんなところ。


いいますよね。
イメージできれば叶うって。
だからたくさん考えたんです、理想の生活。


でも今回の自粛中はその1歩先を、
いやもっと、本質的なことを考えました。

すべて叶ったのにいまなお、ぽっかりと穴のあいた心を見つけたから。




|晴れてのぞんでいた毎日が手に入った。


そう、今回のコロナ騒動の影響。


仕事はなくなった。
でもお給料は保証してくれた。
家族は在宅勤務になった。


なにをせずともお金が入り、自由にすごせる毎日を手に入れた。


まさしく理想。



わたしは自由に過ごした。
なんでもできるはずだった。
お金のために働かなくてよくなったら、ぜったいやりたいことをはじめるんだって思ってた。


やりたいことはたくさんある。



でもこの1ヶ月、わたしはなにもはじめなかった。



|はて。幸せじゃないじゃないか。


思い描いた理想は「ツライ毎日」の対極。
だったのかもしれない。


ほんとうに満たされるのは?とかそんなことは置き去りで、
“いまみたいなじゃない毎日 → 幸せに違いない” の方程式だった。



たしかにその視点は大事。
じぶんを変えたいときの最初の1歩としてはいいかもしれない。
負荷のある状態では、まともな思考ができないから。


なにがイヤかを知ることは大切で、でもそれを知ったからといってなにがしあわせか分かるとは限らない。
なにをすればこの、どこか満たされない穴のようなものは埋まるのか。


この本質的な問いのこたえはなんだ?



|急に神さまのはなし。

わりと精神世界の本を読みます。


神さまが人間を作ったのは、自分以外のものを知りたかったから。
「ダンスをしたかった」なんて表現もみたことがある。
創造主でさえひとりは退屈だったに違いない。


そうだ、ひとりは退屈なのだ。
そこには動きがないから。


しあわせって循環なんじゃないだろうか。


理想の毎日を手に入れたのにどこか虚しかったのは、自分からすることがなかったからだと思う。
ようするにアウトプットがなかった。

アウトプットは自分を表現すること。
人間の本質的な喜びは「表現」だ。
どれだけ好きなこと見つけたって、ひとりじゃつまんないよ。


入れる、出す、入れる、出す。


生活のあらゆる場面で見つかる。


食べるのも喜び、出すのも喜び。
どっちか一方じゃ、やがて苦しみ。



この循環はきっと人間にも自然界にも、はては宇宙にも存在するもので、これが止まったとき、わたしたちの心にはぽっかりと穴が開くのだろう。




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