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沖縄と文学――基地問題を読み解く視点として――(佐喜真彩インタビュー):後編

聞き手=Ćisato Nasu
責任編集=KUNILABO

沖縄文学は、与えられる「沖縄らしさ」を乗り越え、自画像を描くことへ絶えず挑戦してきた

――沖縄文学において夢想される「来るべき共同体」とは、具体的にどういったものでしょうか。

 ここまでお話ししたことでお察しいただけると思いますが、沖縄文学といえども、それは必ずしも沖縄出身の作家による作品や、伝統的な沖縄のための作品である必要はないでしょう。沖縄文学は、沖縄という場だからこそ見えてくる政治的・歴史的文脈を問う中で、国家や既存の民族の視点から語られる「沖縄」を捉え直すことを試みているのです。それは、近代以前の琉球王国時代の血筋を引いた人びとで構成される共同体を再度求めるというよりは、近代以降の悲惨な歴史の中で不可避的に出会わされつつも、心理的に分断されてきた人びとが、どのように新しい共同体を創り直せるかという課題への挑戦だと言えます。沖縄という場を通して、未だ達成していない共同体の創造に向けて、粘り強く分断を超えて行こうとする営みこそが、沖縄文学の魅力だと思います。

――今、沖縄文学を学ぶ意義は何でしょうか。

 沖縄文学は、個人が国家的視点から「語る」という行為が何をしているのかを、批判的に突きつけてきます。たとえば、沖縄の基地問題を日常の実態から離れて日米同盟の視点から語ることが暴力を生み出してはいないでしょうか。沖縄初の芥川賞受賞作品として知られる大城立裕(※7)の『カクテル・パーティー』は、このことを明示的に表現した作品で、冷戦構造が強化される時代の米・中・日との関係を、沖縄という場から批判的に捉えています(講座では、テキストの一つとしてこの作品を取り上げる予定です)。沖縄文学は、国家が強いてきた既存の共同体とは異なる共同体を夢想する力を持っています。沖縄文学のそうした想像力は、沖縄という文脈を離れても、とても重要な示唆を与えると思います。

――2019年4月期に担当いただく講座「文学から見る沖縄――『自画像』に抗して/『自画像』を求めて」の概要を教えてください。

 自画像とは、一般的に作者が自らを対象とした肖像画だと考えられています。では、これまで沖縄は自らによって沖縄を描くことができたのでしょうか。時期や場合によって求められる像は異なりますが、近代以降、沖縄はつねに外から「沖縄らしさ」を投影され続けています。そして、沖縄の側から自画像を描こうとするときに、その「沖縄らしさ」に逃れ難くつきまとわれるということがあるのです。
 沖縄文学は、そうした外から与えられる「沖縄らしさ」を乗り越え、自画像を描くことへ絶えず挑戦してきました。今回の講座では、入門レベルですので、芥川賞受賞作家を中心とした戦後沖縄文学の代表的作品を読む予定です。各作品の政治的・歴史的背景を踏まえ、なぜ自画像を描くことが困難なのかということを説明しながら、沖縄文学のこの挑戦についてお話しできればと思います。

――講座では、「現実を捉えると同時に、現実を乗り越える思想の次元が織り込まれている沖縄文学作品を通して、現在の沖縄が直面する問題を考える一つの視点を提供したい」とのことですが、「現実を捉えると同時に、現実を乗り越える思想の次元」とは、具体的にどのようなことでしょうか。

 先ほど例に出した新城貞夫の短歌について補足する形でお答えしたいと思います。先ほど述べたように、新城の言葉は、日本文化の情緒の力学の中に取り込まれてしまう危険性があります。しかし、新城は、当時の沖縄で生きる者が、日本国家を「祖国」として見てしまう強力な呪縛を鋭く認識していたために、その心の状態を表すために、敢えて短歌を取り入れたことはお話ししました。そして、彼はその現実を認識するだけにとどまらず、それを乗り越えようとして、その呪縛を解くことを試みたのです。彼は、北アフリカにおけるアルジェリア独立戦争を感知し、黒人兵との連帯への模索を通じて、その呪縛を解こうとしました。こうした彼の試みが、短歌という形式の中で、日本の情緒の力学への裏切りという形として表現されているのです。
 ここで重要なのは、新城は、現実から乖離した想像の世界を対抗的に描く形で日本の情緒を拒絶したわけではないということです。呪縛されたように「祖国」を求める人びとの心情を表しつつ、さらに現実に根ざした認識において、それを解こうと葛藤していたのです。1960年代後半のベトナム戦争激化のなか、ブラック・パンサー党と強い関わりを持つ黒人兵士たちの反戦運動と沖縄の反戦運動の連携が実際にあったことが最近の研究で報告されているのですが(※8)、新城の短歌はその先取りであったと言えるでしょう。
 新城の短歌に関連して、1960年代後半からは、反復帰反国家論という思想が現れます。この思想も、空想的に日本国家のオルタナティブを提示したり、それを単に拒絶したりするものではありませんでした。いかに沖縄の人びとの心情が国家へと統合されているのかということを鋭く捉え、そしてそうした状況を批判的に乗り越える人びとの関係性を作り直そうとする試みでした。講座で取り上げる個々の作家たちも、それぞれの方法で、その時代を批判的に捉えようとしています。それらの作品の中には、そのような思想が明示的にではなくともその萌芽として織り込まれているのです。

沖縄の方を向いてもらえない苦渋の状況のなか、戦略的に発せられた「基地を引き取れ」という言葉。本土の運動は、自らの応答の在り方を問われなければならないと思う

――現在の沖縄を取り巻く状況、特に基地問題を理解する術として、私たちは文学から何を学び得るでしょうか。

 昨今、全国で広がりつつある「基地引き取り運動」について述べることにとどめたいと思います。この運動は、本土の植民地主義を終わらせるために、参加者一人ひとりが基地問題を自分の問題として捉え、「沖縄の声」に真摯に向き合うという良心からの運動だと理解しています。けれども、私はその運動に関わる中でいくつかの疑問を感じました。ここでは、そのうちの二点について、文学というより言葉にこだわった視点から述べます。
 まず、沖縄の声が「基地を引き取れ」という言葉とほぼイコールの形で結びつけられてしまっているということです。つまり、本土側から分かりやすいものだけが「沖縄の声」として単純に受け取られがちであるということ。ただ、単純なものだけに目を向ける主体は、基地引き取り運動の担い手だけではないことは付け加えておきます。たとえば、先日行われた県民投票(※9)が、「賛成」「反対」「どちらでもない」という三択で実施される中で、沖縄の声を適切に代弁しているかというとそうではありません。私の知り合いの中には、沖縄の問題を政治の言葉の枠内に切詰めて語らせることへの不条理さから、投票に行かなかったという人は一定数います。また逆に、普段は代表民主制の選挙への拒否から投票に行かない人が、今回の県民投票で「どちらでもない」という選択肢が加わることで、選挙制度そのものへの拒絶の意味が失われてしまうという問題意識から、「賛成」「反対」のいずれかに投票するため、今回は敢えて選挙に行ったという人もいました。このように人々の多様な声が単純化された県民投票の結果を(それを完全に無視する政府の暴挙は論外ですが)、「沖縄の声が示された」として本土の運動のエネルギーに吸収していくことには、違和感があります。県民投票の実施は、声をあげるために、沖縄の難しい現状から若い世代が作り上げた運動の一つの成果だと思います。けれども、それを受け止める以前に、沖縄が声を発する際に、なぜそのような言葉の単純化・画一化が強いられているのかという現状に、基地引き取り運動に限らず本土の運動は向き合わなければならないと思います。
 沖縄の中から「基地を引き取れ」という言葉が出始めたことで、その言葉を字義通り受け取り応答することは、果たして本当に植民地主義を終わらせることになるのでしょうか。何を発しても沖縄の方を向いてもらえないという苦渋の状況のなか、敢えて戦略的に発せられた言葉であることに、耳をすます必要があります。「沖縄の声」という本土側から聞き取りやすい単純化された声にそのまま応答することこそが、沖縄の問題をさらに単純化・画一化していると私は考えます。そうした自己批判が、運動の中で根本的に起きたとしたら、その運動はもはや「基地引き取り運動」とは名指すことができなくなるのではないでしょうか。

――厳しい現実の中にあっても自己批判をする強さが、運動を本当の意味での運動に変えていくのではないか、と。

 誤解を恐れずに言えば、「基地を引き取る」という言葉は、最初はインパクトのある言葉ですが、それが運動の中で何度も使われ流通する中で、実態を離れた抽象的な言葉になっているように思います。だからこそ、人びとにとって、基地の問題や沖縄の問題が、深く考えることなくアクセスしやすいものになったという面もあるのではないでしょうか。もちろん、沖縄を前にして語りかける言葉はないと縮こまることは乗り越えられなければならないと思いますが、逆に緊張感が失われるという問題も生じている気がします。どのように沖縄に向き合えばいいのかという、自分自身に批判を投げかけることがないままに、基地の問題や沖縄の問題を議論できる対象にしてしまっているということです。しかも、単純化・画一化された言葉を繰り返す形で。現状では、本土側から聞き取りやすい形でしか表に現れることができない沖縄の声に、どのように応答すべきか、その在り方が問われる必要があると思います。
 文学作品とマスメディアの情報との違いは、言葉の深さにあります。文学の言葉は、単純化・画一化された情報に浸されている私たちを、「事実」の深みへと連れ出します。講座のテーマである「自画像」の問題を、このような言葉の深さとして考えてみたいと思っています。

――講座の受講を検討されている方へのメッセージをお願いします。

 文学には、現実に現れるのを禁じられていることへ私たちを連れ出す力があります。想像力を喚起する力。これは文学でなければできないと思います。沖縄文学が私たちに喚起する想像/創造の世界に、一緒に身を委ねてみませんか。これまでの視野では見えなかったものが見えてくることがあることを確信しています。(完)

前編を読む)

★佐喜真さんの講座に興味を持った方は、こちらをご覧ください。

★沖縄文学・書籍紹介(講座で使用予定)
山之口貘『山之口貘詩文集』講談社文芸文庫、1999年
目取真俊『水滴』文藝春秋、1997年文春文庫、2000年
岡本恵徳・高橋敏夫・本浜秀彦 編『新装版 沖縄文学選 日本文学のエッジからの問い』(勉誠出版、2015年)

(※7)大城立裕(おおしろ・たつひろ)1925ー。中城村生まれ。小説家、劇作家。『カクテル・パーティー』(『新沖縄文学』第4号、1967年(初出)、岩波現代文庫、2011年)で沖縄初の芥川賞作家となる。その後、『大城立裕全集』全13巻(勉誠出版、2002年)が発行された。
(※8)平井玄「コザの長い影 「歌の戦場」を励起する」(『音の力 沖縄「コザ沸騰編」』インパクト出版会、1998年)、徳田匡「兵士たちの武装「放棄」-反戦兵士たちの沖縄」(『占領者のまなざし-沖縄/日本/米国の戦後』せりか書房、2013年)を参照されたい。
(※9)2019年2月24日に実施された、「普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立て」について、県民の意思を示すために実施された住民投票。

佐喜真 彩(さきま・あや)
近現代沖縄文学・思想。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程在籍。
論文に「「他者」を聞きとるということ――崎山多美における音の考察をとおして」『言語社会』9号(2014年)、Voices of Despair: Encounter Between a Sex Worker and a Solider in Postwar Okinawa in Sueko Yoshida's Love Suicide at Kamaara, Correspondence # 3 (2018) など。

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