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Being, Interbeing, Relational being

夜が大好き、夜になると一気に集中力が高まる困った人です(心の中では、明日の朝6時から机に向かいたいなぁ、、、と思いつつ、頭の中に残ったままでは眠れないので机に向かう)


今朝は、動作学のオンラインサロン「動作学プラネテス」内の企画Synxnationで、BEの肩書きの提唱者であり、現在は「沙門見習い」と名乗っている兼松佳宏さんと、朝5時からオンラインでトークでした。


兼松さんは、現在「空海」を読み解きながらそれに派生した内容の本の執筆をつづけていらして、空海の話や、サステナビリティといった現代的な言葉と空海のつながりとか、そもそもBEの肩書きのBEの話など、あっという間の1時間だった。


そして夜は、12月にあるA-Yoga認定者の合宿で、講師をお願いしているビジネスコーチの半谷さん(Youtube:LBJ channel)と、内容についての打ち合わせをして、今日は朝の兼松さんのBEから始まり、夜の半谷さんとのBeingの話で1日が終わった。


半ちゃんミーティング


Be, Being=ありかた、自分が大事にするもの、自分の価値観

そんな風な解釈で説明をされることはあるけど、何をやるか(Doing)ではなく、どうあるか(Being)が大事だよね、、、と言われて数年が経つ。


そして兼松さんとの話の中で、そのBeingの時代から、最近では、InterbeingそしてRelational beingへと変化しているという話になった。


Interbeingは、ティックナットハーン(Thich Nhat Hanh)(ベトナム人の禅僧)、彼が表現し始めた言葉として知られています。そのInterbeingについて、彼はこう語っています。(本文は「The Insight of Interbeing」より」

「空っぽというのは無という意味ではありません。空だと言っても、存在しないわけではありません。何かが満たされていようが、空であろうが、そのものは明らかに最初からそこにある必要があります。コップが空だと言うとき、コップが存在しなければ空にはなりません。私たちが空であると言うことは、永久に分離した自己が空であるためには、そこに存在しなければならないということです。

30年ほど前、私は人間が他のすべてのものと深くつながっていることを表す英語を探していました。togetherness "という言葉も良かったのですが、最終的には "interbeing "という言葉にたどり着きました。というのも、私たちは自分一人では存在できないからです。"to be "は常に "inter-be "なのです。接頭語の "inter "と動詞の "to be "を組み合わせると、"inter-be "という新しい動詞になります。inter-beとinter-beingの動作は、現実をより正確に反映しています。私たちはお互いに、そしてすべての生命と相互に存在しているのです。

私が高く評価している生物学者にルイス・トーマスという人がいます。彼は、私たち人間の体が、他の無数の小さな生物によって「共有され、借り出され、占有されている」ことを説明しています。彼らがいなければ、私たちは「筋肉を動かすことも、指を鳴らすことも、考えることもできない」のです。私たちの体は共同体であり、体の中にある何兆もの人間以外の細胞は、人間の細胞よりもさらに多いのです。彼らがいなければ、私たちはこの瞬間にここにいることはできません。彼らがいなければ、私たちは考えることも、感じることも、話すこともできません。孤独な存在は存在しないという。地球全体が一つの巨大な生きた呼吸する細胞であり、すべての働く部分が共生している。

私たちは、日常生活のいたるところで空虚と共生を観察することができます。子供を見れば、その子の中に母親や父親、祖母や祖父がいることがすぐにわかります。見た目も、行動も、言葉遣いも。彼女のスキルや才能も、両親と同じです。その子がなぜある行動をとっているのか理解できないときは、その子が独立した自己の存在ではないことを思い出すといいでしょう。彼女は継続的な存在なのです。彼女の両親と祖先は彼女の中にいます。彼女が歩いたり話したりするとき、彼らもまた歩いたり話したりするのです。子供を見ていると、親や先祖に触れることができますが、同じように、親を見ていると、子供が見えてきます。私たちは独立して存在しているのではありません。相互に存在している。

星も、雲も、花も、木も、そしてあなたも私も、すべては宇宙のすべてのものに依存しています。

あるとき、ロンドンの街角で歩く瞑想をしていたら、本屋のウィンドウに「My Mother, Myself」というタイトルの本が飾ってありました。私はその本を買いませんでした。なぜなら、中身はすでに知っていると思ったからです。確かに、私たち一人ひとりは母の連続であり、私たちは母なのです。ですから、私たちが母親や父親に腹を立てるときはいつも、自分自身にも腹を立てているのです。私たちが何をするにしても、親は私たちと一緒にやっているのです。受け入れがたいことかもしれませんが、これが真実なのです。親と関わりたくないとは言えないのです。両親は私たちの中にいて、私たちは両親の中にいるのです。私たちは、すべての先祖の継続なのです。無常のおかげで、私たちは継承したものを美しい方向へと変化させるチャンスがあります。

私がお線香をあげたり、庵の仏壇にひれ伏したりするのは、個々の自分としてではなく、すべての系統としてのことなのです。歩くときも、座るときも、食べるときも、書道をするときも、私の中にすべての先祖がいることを意識して行います。私は彼らの継続者です。何をするにしても、マインドフルネスのエネルギーによって、「私」としてではなく、「私たち」として、相互に存在しながら行うことができます。私が書道の筆を持つとき、私は自分の手から父を取り去ることはできないと知っています。また、母や祖先を私から取り去ることはできません。母や祖先は、私の細胞の中に、私のジェスチャーの中に、美しい円を描く能力の中に存在しています。また、私の手からスピリチュアル・ティーチャーを取り除くこともできません。彼らは、私が円を描くときに享受する平和、集中、マインドフルネスの中に存在しています。私たちは皆、一緒に円を描いているのです。それをしているのは別の自分ではありません。書道の練習をしながら、私は無我の深遠な洞察に触れます。それは深い瞑想の実践となります。

仕事中でも家にいるときでも、私たちは自分の行動の中にすべての祖先や先生が存在していることを確認する練習ができます。先祖が伝えてくれた才能や技術を表現するときに、先祖の存在を見ることができます。食事の準備をしたり、食器を洗ったりするときに、先祖の手が私たちの手の中にあるのを見ることができます。相互存在を意識的に認識することで、深いつながりを体験し、自分は別個の存在であるという考えから解放されるのです。

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と、ティックナットハーンは語っています。


そしてこの話を読んで思い浮かんだのは、先日の「女性のからだ学セミナー」の打ち合わせの時に、助産師の渡邊安衣子さんが、「私たちは、自分の母親のおなかの中だけではなく、実は祖母のおなかの中にもいた。」という話をしたことを思い出した。私たちの母親は、生まれたときにすでに数多くの卵子の源を持ってこの世に出てくる。つまりは母親が祖母のおなかの中にいる時に存在していた細胞が将来的には卵子となり、私たちがこの世に存在するから、私たちは祖母のおなかの中にも存在していた、、、と。


で、ティックナットハーンの話に戻ると、ここから考えるのは、よく「私の在り方を探求する」というような話をするときに、「私」だけを掘り下げようとするけれども、私たちは個で存在することはできないのだから、Interbeingとして、Interbeingな存在として、私のBeingを見ることが大事なのではないかと思う。


他者に生かされた、他者に反映された私というBeing。


よく「自分の周りにいる人を見れば、私という人間が見えてくる」みたいなことが言われるが、きっとそれはこのInterbeingという考え方に近いものがあるのではないかと思う。


誰と時間を過ごすか

誰と会話をするか

誰の言葉を聞くか

誰の行動を目にするか

どんな環境に身を置くか

どんな世界を経験するか

その一つ一つが私Beingを反映している。


そして近年では、さらにRelational beingという言葉が出てきたらしい。2009年に心理学者であるKenneth J. Gergenが同じタイトルで書籍を出版している。


Relational Beingは、ここまで発展してきた土台としてあった個人主義からインターネットをはじめとするデジタルトランスフォーメーションによる新しい関係性の構築を含めた、Beingの在り方を話していると障りのところしか触れていない私の理解ですが、Book Review(International Journal of Communication 6 (2012), Book Review 834–837)から抜粋すると


「自己は、無数の関係をつなぐ点として、あるいは「関係の総和に等しい全体」として存在しています(p.55)。個人の自律性とは、自己の感覚の中に組み込まれた関係の総体に、安心して依存しないことを意味します。タークル(2011)は、オンラインメディアが日常生活に浸透して社会が飽和状態になっていることを受けて、「他人と一緒にいるためには、一人になることを学ばなければならず、一人になることを学ばなければ、孤独になるしかない」とよく指摘しています。同様に、ガーゲンは関係性を中心に据え、社会科学者や個人に対して、関係性の多重性と可鍛性を本質的に、また、そのようなものとして捉えるよう呼びかけている。」


「ゲルゲン氏は、教育、理論、幸福に重点を置き、道徳的なものから神聖なものへ、さらには死すべきものから神聖なものへの精神的な超越について刺激的な議論をして、この本を締めくくっている。この議論で印象的なのは、科学と道徳を調和させて、対人関係から発展する個人の自律性への道を提案していることです。そこに、この本の教育的な貢献があります。それは究極的には、関係を通して自分自身を見つけることを学ぶことによって、関係の中に自分自身のためのスペースを見つけることです。ネットワークや科学技術の研究者にとって、これは関係性に視点を移すことで自我を検証することを意味します。」


とあり、特に後半の文章「それは究極的には、関係を通して自分自身を見つけることを学ぶことによって、関係の中に自分自身のためのスペースを見つけることです。」はとても興味深いものだと感じている。


そしてさらにRelational beingを検索してみると、(本文は「Relational Dimensions of the Human Being」より、和訳は以下。)

「人間は関係性を持った存在です。その最初の側面として、人間と自然の関係があります。人間は他の動物と同じように、食物を得るため、身を守るため、生息地を得るために自然を利用しますが、人間はその働きによって自然を様々な目的のために変化させます。人間を自然の上位に置く人間中心主義の理論もある。人間を専制君主として表現する場合もあれば、環境に配慮し、持続可能性を追求するスチュワードとして表現する場合もあります。また、人間を他の生物種の中の1つの生物種と見なしたり(生物中心主義)、生態系の単なる一部と見なす(生態中心主義)アプローチもあります。

2つ目の側面は、人間同士の関係性と、社会の中で生きていこうとする自然な傾向(社会性)です。人間は他者と「一対一」の関係を築き、所属する社会集団との絆を形成する。対人関係には、相互の知識、魅力、コミュニケーション、対話、そして協力や連携の可能性が含まれる。人とその人が属する社会集団との関係については、「社会的原子論」、「社会的有機体」、「共同体」という3つの見方があります。

第3の側面は、人と神の関係、もっと広く言えば、人間と、宇宙における自分の居場所と自分の人生の完全な意味についてのビジョンを与える超越的な何かとの関係である。人は、自分の究極の意味と価値を理解し、それに基づいて人生を生きますが(スピリチュアリティ)、それには神や何らかの神を信じ、関係し、崇拝すること(宗教)が含まれることがよくあります。」

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と、書かれていました。


自分を知るために、自分と向き合うのではなく、他者を通して自分を知り、私と関係を持つすべての存在そして自然との関係性を通して自分を知る。


将来的な自分の望む道を見つけるため、どのようなBeingでDoingするのかを見つけるうえでも、常に自分と関係のあるものや人の存在を忘れてはならないし、それなくして私は存在しないということを、より深く考えた1日だった。


「なぜ今あなたはそれをやっているのか。」

「なぜ今あなたはその仕事を選んでやっているのか。」


きっとそれすらも、私が望んだ私の中から生まれてきたものという以上に、InterbeingそしてRelational Beingが私にもたらしたものであると考えたとき、きっとあなたの物事への取り組みが変わるのかもしれない、、、とつぶやき、長い投稿を終わりにしたいと思います。


「あなたは誰のためにそれをやっているのか?」

「誰かそして何かが私を動かしている。」


そんな心境になれたら本望なのかもしれない。


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