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昭和であった14 〜昭和30年代、子供飲料事情!〜

先日聞いた話だが、最近の日本の子供は『水』を好まないらしい。
何故なら何の味もしないから…
どうせペットボトルの水を買うのだったら、スポーツドリンクやジュースなどを選んでしまうという風潮が長く続いたからなのだろうか。
飲料水にお金を払う…実は私にはあまり馴染まない…
今ではもう中年世代となっている年下の世代のアーティストやクリエーターたちとの付き合いも多いが、彼らですら圧倒的に水道水を飲まない世代だ。
ペットボトルやウォーターサーバーの水しか飲まない人が多い。
はて?... 私は仕事柄先進国、発展途上国、僻地を問わず海外色々な地域を巡ってきたが、日本の水道水をそれほど危険とも思わないし『不味い』とも思ったことはない。
欧米の各都市でも水道水はずっと不味いし、不衛生と言われるところも少なくないので、ペットボトルの飲料水や有料のウォーターサーバーを利用するケースが多いことは理解できる。
しかし、東京の水はむしろ『美味しい』し、地方の何処に行っても水を不味いと思ったことはない。
海外で水にあたって腹を壊す経験は何度もあったが、日本で水にあたったことはただの1度もない。
多分日本の水道水は世界の先進国の中でもトップクラスで美味しいし安全だと思うのだが、どうだろう…

昭和30年代は日本もまだ発展途上だった。
東京でもあちらこちでは多く井戸水を利用していて、子供の頃は街のあちこちに点在する井戸水の手押しポンプで水を汲んで飲んでいた。

以前はどこの家にも路地にもあった井戸水のポンプ。

ポンプの口の布製の濾過袋には砂つぶが残されていたが、井戸水で腹を壊した記憶はない。
水道水はさらに安全と言われていた。
あの公害が蔓延していた時代ですら、水道の水を直接飲むことは当たり前だった。

どこの蛇口の水も普通に飲んでいた。
昭和30年代後半から登場したウォータークーラー。
これも水道と直結式だったので、水道水をそのまま飲んでいるのと同じだった。

多分、日本は地質学的にも歴史的にも文化的にも、潜在的に上水のクォリティーが高かったのだろう。
ということで、子供時代の我々は水分補給には基本水道水や井戸水をガブ飲みしていた。
我々子供の日常の水分補給はあくまでもその辺の『水』であった。
流石に夏の間だけは感染症を心配した大人たちから麦茶や湯冷まし水の飲用を勧められたが、外で遊んでいる時にはそんなことはお構いなしである。
街そこここの蛇口や井戸ポンプにかぶりついた。
なので、それ以外のジュースなどの飲料は全て嗜好飲料。
おやつと同じ楽しむ為の『美味しい』飲み物だった。

それでは当時の飲料、記憶を紐解いて1つ1つ辿ってみよう…

『ラムネ』
筆頭は何と言ってもこれだろう。

手軽で身近な炭酸飲料、ラムネ。

駄菓子屋でもお菓子屋でも街の酒屋でも何処でも売っている。
1本5円。(確か瓶の返却が条件だったような気がする)
子供の懐でも気楽に購入することが出来るし、瓶の形もサイズも気に入っていた。冷たく氷で冷やしてくれているので大概瓶は濡れている。
当然ご存知だろうが、栓はビー玉。
これを瓶内に落として開栓する甘い炭酸飲料。
「ラムネ飲もうぜ!」
炎天下を駄菓子屋まで走り、汗だくで手にしたラムネの最初の一口…
濡れた手を汗で湿ってしまったシャツで拭う…
あの時感じた爽やかさは今でも記憶の中に大切に仕舞われている。

『ニッキ水』

瓢箪型の小さなガラス瓶に入っているニッキ水。

駄菓子屋の定番飲料。
ニッキは辛味のあるシナモンのような香辛料だがシナモンとは違う。
シナモンはニッケイの樹皮だがニッキはニッケイの根皮から抽出されたもの。
ピリリと舌に刺激がある。
刺激があるが炭酸飲料ではない。
いろんな色で着色されていて、それぞれに香料で風味が付いていたが、味に大きな変わりはなかった。
駄菓子屋のおばさん曰く「ニッキ水は1回に1本にしなさい。沢山飲むとお腹壊すよ」とは事実だったのだろうか?
ゴクゴク飲むものではない。
チビチビ飲むのだ。(第一、瓶も小さく量も少ない)
今飲んでもピンとこないが、私はこの刺激がやけに好きだった。

『駄菓子屋ジュース』
商品名は、忘れた…というか『ジュース』としか呼んでいなかった。

ジュースとしか呼んでいなかったが、何のジュースだったのだろう…

ビニール容器に入った小型の着色飲料。
吸い口を歯で少し穴を開けて少しずつ吸うのである。
当時は写真のものよりもずっとどぎつい色で、合成甘味料の甘味が強く、言ってみれば毒々しい感じの、いけないもの的感じの飲料だった。
その後の規制で大分味も変わったので、当時は本当にいけないものだったのだろう。
そこが良かった!
今思い出しても何とも刺激的な飲料だった。
親に見つかると「そんなもの飲むのやめなさい!」とか言われるので、隠れてこっそり買っていた。
あの頃の大人たちというか世の中はがむしゃらにお金儲けに躍起になっていたので、我々子供も売られているものが全て安全などとは思っていなかった。
まあ、お互い様である。
程なく(私が子供のうちに)メーカーさんが改善し、大して面白くも何ともない飲料になってしまったので、すっかり興味を失ってしまった。

『コーヒー糖』

現在も売られている『コーヒー糖』

我が家には時々置いてあった。
粉砂糖の塊のようなものだが、中にソリュブルコーヒー(インスタントコーヒー…真空状のタンクに噴霧して粉にしたもの)的なものが仕込まれている。

中に仕込まれているコーヒー風味の粉。
これはインスタントコーヒーだったのか?…

これをカップに入れて上からお湯を注ぐと、あっまーいコーヒー風味のお湯(決してコーヒーとは言えない)が出来上がる。

お湯を注ぐとコーヒーの香りのする砂糖湯が出来上がる。

これは子供も飲んで良いことになっていた。
写真のものは今現在売られているものらしいが、『ふる里の味』と表記がある。
調べたら、元々は出雲の駄菓子で戦後直後から関西ではかなり普及したらしい。
我が家は元々(明治時代)神戸だったし、数年は父も関西勤務だったので、誰かからの貰い物だったのか…
品川の駄菓子屋やお菓子屋には売っていなかった。
私はかなり好きだった。

『トリス コンクジュース』

お中元の定番だったトリスのコンクジュース。

お中元季節になると子供のいる我が家にはコンクジュースの詰め合わせがよく届いた。
特にトリスは定番のメーカーである。
コンクジュースとはジュースエキスのこと。
適量の水で薄めて飲むものである。
なので、濃さは自分で決められる。
メーカーものなので果汁の風味もきちんと保たれている。
私的には美味しいジュースで、我が家にこれがある間は嬉しかった。

『明治屋 シロップ』

明治屋のシロップもお中元の定番だった。

濃い甘い砂糖シロップに着色し香料を加えたもの。
夏の氷いちごや氷メロンにかけられているあのシロップである。
やはりお中元の定番であった。
外で遊んでいると、ヤカンに沢山氷を入れて水で割ったシロップを入れたものをよく近所のおばさんや社宅の誰かのお母さんから振る舞わられた。
汗をたっぷりかいた後には甘くて冷たいこのシロップ水が本当に美味しい。
材料から言っても多分低コストの庶民的飲み物だったのだろう。
結構あちらこちらで振る舞われた。

『カルピス』
こちらもお中元季節の定番。
乳酸飲料の先駆けと言える。

カルピスのキャラクターといえばこれだった。

水で割って飲むので、濃い薄いは自分好みで決められるが、あまり濃くしすぎると親から「もったいない」と嗜められる。
子供なら誰でも好きな嬉しい飲み物だった。
カルピスのキャラクターはこれだったと思う。
他にも、オリエンタルカレーやタカラのダッコちゃんマーク…黒人のキャラクターは多かった。
1960年代のアメリカの民権運動の過熱に伴い、人種的差別は国際的なご法度となって、それぞれ目立たなくなってしまったが、別に差別していた訳ではないので、『お互いそんなに気にすることもないのにな〜』とは正直な感想だ。

『ヤクルト』

牛乳瓶を小さくした様な容器だった。

我が家にヤクルトが届けられるようになったのはいつの頃からだっただろうか?
ヤクルトレディーはまだ世に出現していなかった。
私は牛乳が大嫌いだった。
これは学校給食に添えられた不味い脱脂粉乳(好きな子供もいた)の後遺症だったと思う。
で、これなら…と親が毎朝届けさせてくれていた。(なので多分牛乳屋さんが届けてくれていたのだと思う)
容器はまだ小さな瓶だった。
大好きだった!
私はこれを3日分ためて、3日目に大きめのカップ一杯に注ぎ一気にゴクゴク飲むのが好きだった。
時々、貯めておいたヤクルトが冷倉庫から消えていた。
兄を問い詰めると「なんだ、飲まないからもったいないと思って飲んじゃったよ」とサラリと言うのだ。
それも毎回…
もちろん、私の飲み方を知っていてのことだ…今思い出しても腹が立つ…

『噴水式ジュース自販機』
紙コップで飲むジュースの自動販売機である。

上部の噴水ディスプレイがそそるのだ。

もちろん普段の地元商店街にはない。
大きな繁華街や、たまに親に連れて行って貰う遊園地や観光地に設置されている。
自販機の上には透明なガラスの大きな容器が付いていて色鮮やかなジュースが勢いよく噴水状にディスプレイされている。
見るからに美味しそうだ!
紙コップを自販機の注ぎ口に置いて10円玉を1つ投入すると、冷たいジュースが注がれる。
これが、大概の場合美味しくないのだ。
肝心の味は人工的な果汁風味らしいもので明らかにまがい物。
いつも口にしてガッカリするのだが、それでも懲りずに目にするとまた欲しくなってしまうという不思議な不思議な懲りない自販機だった。(毎度のことなので、親も呆れていた)

『コーヒー牛乳』
牛乳は嫌いだったが、コーヒー牛乳は大好きだった!

広告のキャラクターは和泉雅子さんだと思う。

社宅アパートの我が家はガス釜の内風呂だったのでお風呂屋さんに行く習慣はなかったが、仲良しの友人の家が『亀の湯』という銭湯を経営していた。
たまに彼の家に遊びに行くと、大抵お母様から「お風呂に入って行きなさい」とよく銭湯に入れて貰っていた。
その際には入浴後番台脇の売店で飲み物を振舞ってくれるのだ。
私はいつもコーヒー牛乳を選んだ。
大きな湯船でたっぷり遊んだ後、風呂上がりの冷たいコーヒー牛乳は本当に美味しかった!

『ミルクココア』

懐かしい缶容器。
我が家では牛乳に加え温めていた。
嫌いな牛乳を少しでも飲ませたかったのだろう。

私の父は『紅茶』『コーヒー』そして『ココア』が好きだった。
なので我が家にはこの森永の『ミルクココア』が常備してあった。
冬の寒い日にこの粉末ココアを温めた牛乳で割って温かいココアを作ってくれる。チョコレート風味のココアはいつも格別な味わいと温かさだった。
食パンをちょっとトースターで炙って貰って、甘いココアに浸しながら食べるおやつは格別な美味しさだった。

『プラッシー』

街の米屋の店頭にはこの看板が…

夏になると米屋からプラッシーが1ケース(2ダース)届けられる。
プラッシーは武田製薬が当時発売したオレンジジュースにビタミンを加えた子供の為の健康飲料ドリンクだ。
それ以前に武田製薬は子供の栄養不足を補う食品としてビタミン添加米を販売していたので、プラッシーの販路は米屋の配達網となった。
これは嬉しかった!
プラッシーは少しビタミン臭いものの、ちゃんとしたオレンジジュース。
ジュースとして結構美味しいのだ。
もちろん何本も飲むことは許されないが、毎日飲むことを奨励される。
子供にとってジュースが結構なご馳走だった時代に、いきなりプラッシーが登場し、毎日贅沢気分を味わえることになった。

『三ツ矢サイダー』

ラムネとは一線を画す味わいの三ツ矢サイダー。

夏…お中元やらお盆やら、来客の多い時期になると、近所の酒屋からビールと一緒に三ツ矢サイダーが配達されるようになる。
これは我々子供の為ではなく、明らかに来客のおもてなしのためのものだった。
なので、勝手に飲むことは許されない。
でも、もちろん我々子供も時々はご相伴に預かることが出来る。
同じ炭酸飲料でありながら、普段飲んでいるラムネとはまた大きく違うすっきりとした高級な味わいであった。

『バヤリース』

来客おもてなし用のバヤリースオレンジ。

これも来客のおもてなし用。
子供や女性の来客用だ。
時々はおやつ時に供されることもある。
それは母親の気分次第…
夏に女性のお客さんが来る時にはバヤリース目当てに外で遊ぶことを控え、なるべく家にいるようにした。
しっかりした果汁ジュース。
調べてみたら、バヤリースの果汁は10%だった。

『明治オレンジ缶ジュース』

缶ジュースの先駆け、明治の缶ジュース。

遠足の時には絶対にこれを買って貰って持って行った。
多分、世の中的にも初めての缶飲料。
缶飲料の時代はここから始まったと言える。
写真にある様に缶には小さな缶切りが付いていてこれで上部2箇所に穴を開けて飲むのだ。
本当にたまにしか買って貰えなかったが、嬉しい楽しい美味しい缶ジュースだった。

『渡辺のジュースの素』

渡辺のジュースの素は一袋でコップ一杯分…

初めての粉末ジュースである。
『渡辺の〜ジュースの素です もう一杯っ♪』…エノケンのコマーシャルソングで大ヒットした。

1袋5円だったか…
水で割って飲んでも、そのまま舐めても美味しかった!
その後『メロンソーダの素』や『クリームソーダの素』など、各メーカーから様々な粉末飲料が発売されたが、全てはこの『渡辺のジュースの素』から始まった。

『クリームソーダ』
父は休みの日によく私や兄を銀座にふらっと連れて行ってくれた。
銀座に行くと大抵『資生堂パーラー』や『千疋屋』といった老舗のフルーツ店でアイスや飲み物をご馳走してくれた。
ある夏の日、外で遊んでいた私のところに父が来て「おい、銀座に一緒に行かないか?」と誘われた。
いつもそんな感じでいきなり誘われるのだ。
で、その日はブラブラと買い物の後『千疋屋』に連れて行ってくれた。
メニューにクリームソーダを見つけて生まれて初めて頼んでもらった。
グリーンの美しいソーダの表面に飛び跳ねるように小さな炭酸の泡が飛び跳ね、黄み掛かった濃厚で美味しそうなアイスクリームが浮かんでいる…

そっとストローを差し込み、ふと魔が刺した…
吸わずにプクプクと吹いてみたのだ…
強めの炭酸に高乳脂肪分のクリーム…容器は瞬く間に白い泡だらけとなり、みるみる泡は溢れ出し、大理石のテーブル上を覆い始めた!
それを見た父は大慌てで店員さんにお絞りを頼み、謝りながら2人がかりでせっせと拭き始める…
私は呆然とするばかり…
そして、そこは流石に『千疋屋』である。
泡だらけとなったクリームソーダは引き上げられ、綺麗に拭かれたテーブルには店長さんから新たにクリームソーダが用意された。
店長さんは「坊や、今度は注意してそっと飲んでくださいね」と笑顔を投げかけてくれた。
そしてこの事件はその後何年もの間我が家の笑い話として長く言い伝えられることになったのだ。
とても美味しい、そしてちょっぴり苦い忘れられない思い出となった。

『コカコーラ』
忘れもしない小学校3年生の時だった。
父が勤める会社で宣伝課長に昇進して間も無くのことだった。
父の会社が番組クライアントとなっていたフジテレビが家族の我々を局の見学に招待してくれたのだ。
母と私は番組収録の見学を色々見せて貰った後、接客室で飲み物が振る舞われた。その時生まれて初めてコカコーラを飲んだのだ。

もちろんコカコーラは瓶入りしかなかった。

『この薬のような味わいは一体何なのだろう…』最初の一口目、私は思わず顔をしかめた。
「坊や、コーラはお口に合わないかな?」様子を見た担当者が尋ねる…
「いえ…美味しいです」と飲み進めると、不思議不思議…どんどん美味しくなるのだ。
瓶1本を飲み切る前に、私はこの生まれて初めての飲み物の虜になってしまった。
帰宅した父にそのことを話したら「そうか… コカコーラ気に入ったか。俺も戦前は好きでよく飲んでたなあ…」と懐かしそうに微笑んだ。
あれほど斬新な飲み物コカコーラが昔からあった飲料であることにビックリし、戦争によって普及が途絶えたという事実に驚かされた。
そして、それからほんの数年の間にコーラは瞬く間に日本中を席巻し、我が家でも日常の飲料となるのである。

瓶時代のコカコーラの自販機。
お金を入れると左の扉から1本引き出すことが出来る。

以上、昭和30年代、私の少年時代を彩った飲料の数々であった。
次回からはいよいよ当時の私の食卓の思い出である。

『昭和であった15 〜ご馳走さま!朝食編』へ…







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