5年以上ブランクのある元WEBディレクターが復帰を目指して色々勉強していく過程を書きつづってみます
はじめまして。
制作会社に7,8年フリーランスで約1年。
それから5年半くらい採石業で働いていました。
まあ現場監督でPCとも無縁なお仕事。
まあ5年前までの話をちょいと。
WEBデザイナーから始まって、デザインコーディングはもちろんのこと、今は亡きFlashでアニメーション作ったりactionscriptでゴリゴリしたりをメインにしばらくやってきました。
その他無茶ぶり仕事は私の担当、と言わんばかりに色々やってきました。
CDコンテンツ制作で当時でさえ死亡寸前なDirectorでlingoっていう言語は初めてなのになんとか作成してそれからなんだかんだ10点は納めたんじゃなかろうか。映像作れと言われればAfterEffectとかPremireとか使って作ってみたり、インタビュー行って写真撮ってこいと言われれば、インタビュアとカメラマンやってみたり、なんだか下手の横好きよろしく浅く広くやってきました(笑)
ぼちぼち辞めて次のステップに行きたいなーなんて思っていたそんな時、
転機が訪れたのが大手の制作会社さんに出向。
かなりの大型案件のディレクターとして。第一フェーズに下っ端ディレクターとして入って、第二フェーズからデザインチームのディレクターとして入る、という当初の話。
もうね、1ヶ月で第一フェーズのディレクターリーダーさん辞めてしまわれました。。
んではい、あなた明日からリーダーね、と。
(さすがに明日からはウソですけどww)
そう、忘れてました、私は無茶ぶり担当。
今だから言えるけど、ディレクターなんてほとんどしたことなかった。
小規模案件を社内でディレクションする程度。。
なのに触れ込みはバリバリのディレクターww
知ったかぶり、やれるふり、いっぱい背伸びしました。
ワイヤーフレームなんて言葉も知らないのに書きましたよ1000枚以上はあった気がする。プロジェクト全体は多分100人以上いたと思う。
デザインチームもなんだかんだ20人くらいいたかな。
そこは外人部隊というか私みたいに外から来た人ばかりで、なぜかプロパーの人を外人が従えてやってました。
そんなわけで生まれて初めての完全3徹とか前人未到の鬼勤務を乗り越え、
最高の仲間たち戦友と出会えました。特に外人部隊の人たち。
その後所属会社に戻り、その会社のディレクション仕事やデザイン等の仕事をこなしつつ、出向先で出会った方々から仕事を貰いつつ日々をこなして行きました。
そんな矢先に東日本大震災。
妻の実家は被災しました。その家族で会社をはじめ、震災復興に取り組んでいるという。。
私はその会社を手伝うことを決意しました。完全異業種でしたが。
それもあって会社にはいずれ辞めることになる、と話していた矢先、
いつ辞めるの?と。社長さん。
(なんだ私の扱いに困っているな)とすぐに感じ、元々会社のやり方が性に合わず、いやで辞めようとも思っていたので、では来月で、と。
最後のボーナス支給日の査定はゼロ!新しいお客さん引っ張って来て、私が辞めてからも引き続き仕事を流すようお願いしてたのにこの仕打ち。。
7年はいたかなー。とっても悲しくなりました。
普通は元の会社から仕事をもらいながら独立するのが普通なんでしょうが、絶対にあそこには世話にならない、と心に決めて独立。
以前の出向先の方々や、元々会社勤めしながらゆるくフリーの仕事もしていたので、それ関連でも仕事をいただき、さらにその輪が大きくなって・・という
仕事が仕事を呼ぶような楽しい状況が生まれておりました。
大きなECサイトのディレクション(デザイン、制作管理、情報設計)や映像系や小規模サイトなど色々携わりました。
そんな折、先般の震災復興の話で会社を手伝ってくれ、と依頼が。
順調に来ていた状況で残念ではありましたが、仕事を手仕舞いして被災地へと旅立ちました。
まず、役員待遇でした。社員はいなかったけど。
最初の2年はかばん持ちのような仕事と事務的な仕事をしながら過ごしました。その後、採石場を開くことになり、採石業務管理者と甲種火薬類取扱保安責任者として山を管理する仕事に就きました。
宅建の試験にも受かりました。
3年は管理者として勤めたでしょうか。
すっかり顔は日に焼けていました。
いろいろあって退社することに。
ここからは現在。
なんだかんだ私にとってはWEBの仕事しかありません。
WEB業界に戻ることを決意。
仙台では人脈構築がままならず、ほぼ人脈なし・・
東京に戻れば人脈もあるので、おそらくそれなりに働けるだろうという思いもあります。
なかなか当時の高い給料に合わせて家を作ったため、ローンの払いも普通に勤めたら難しい状況です。
どうすればいいのか途方に暮れる毎日ですが、まずは仕事を決めなければなりません。
仙台で高給を支給してくれる会社があれば尻尾ふって勤めるんですが、それも現実的ではない額を必要としているため、東京で仕事を探して家は売るか貸すかして、子供の引越しはとっても心苦しいのですが、東京に拠点を移すしかないかな、と。
いろいろ決断はして来た人生ではありますが、与える影響の多い決断には躊躇や戸惑いが伴い、なかなか苦しい状況です。お金という切羽詰まった状況もありますし。
理想だけ言えば、いきなりそこそこのお金を出してくれて、仙台ベースで東京にはちょこちょこ来てくれ、というスタンスがあればなーと思いますが、ないだろなww
そうなれば全力で仙台でも仕事とってきて頑張るんだけど。
そんな中そもそも5年というブランクを埋めるべく、いろいろな状況と並行しながら勉強をはじめた次第です。
ふぅ、人の5年をざっくりでも語るのって大変ですなぁ。
次からはもう少しWEBの話を描いてみます。
固有名詞等はほぼ出していませんが、私を知っている人がみたら私を特定できると思います。こんな変わった経歴のWEBディレクターはいないでしょうからww
もし見つけてしまった方はこっそりとご連絡ください。
飲みでも行きましょう。
東京でもなんでもどこでもお伺いいたします。
なんにせよ人の繋がりに勝る武器はない、と実感している今日この頃です。
長文乱文ご精読ありがとうございました
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