葉桜と魔笛 太宰治

姿が見えなければ、簡単に傷付ける言葉を投げる。いや、投げつける。そんな想像力の無い寂しい世の中に、こんなあたたかい話が埋もれていた。

「桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。ーーーと、その老人は物語る。」

この話の中心人物は、私、父、妹。母は私が十三のときに亡くなった。父は頑固一徹の学者気質の中学校長。私は父を心配し、家を出なかった。

妹は大変美しく、髪も長く、可愛い子だったが、からだが弱かった。腎臓結核になり、余命宣告を受ける。

寝たきりになった妹に手紙が届く。M.T.という人物からだ。妹には秘密だが、私はM.T.という人物を知っている。妹への手紙をこっそりと読んでいたからだ。そのM.T.は病気を知ると、妹を捨てた。そのM.T.からの手紙。

「姉さん。読んでごらんなさい。なんのことやら、あたしには、ちっともわからない。」

私には手紙の内容はわかっているが、声に出して読む。

「きょうは、あなたにおわびを申し上げます。僕が、きょうまで、がまんしてあなたにお手紙差し上げなかったわけは、すべて僕の自信の無さからであります。〜中略〜僕は、あなたを愛しています。毎日、毎日、歌をつくってお送りします。それから、毎日、毎日、あなたのお庭の塀のそとで、口笛吹いてお聞かせしましょう。あしたの晩の六時には、さっそく口笛、軍艦マアチ吹いてあげます。〜中略〜 待ち待ちて ことし咲きけり 桃の花 白と聞きつつ 花は紅なり 僕は勉強しています。すべては、うまくいっています。では、また、明日。 M.T.」
「ありがとう、姉さん、これ、姉さんが書いたのね。」

妹を思い姉がM.T.の筆跡をまねて書いたものだと妹は気付く。姉はいてもたってもいられないくらい恥ずかしくなる。

「姉さん、心配なさらなくても、いいのよ。」妹は、不思議にも落ちついて、崇高なくらいに美しく微笑していました。「姉さん、あの緑のリボンで結んであった手紙を見たのでしょう? あれは、ウソ。あたし、あんまり淋しいから、おととしの秋から、ひとりであんな手紙書いて、あたしに宛あてて投函していたの。姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いてるなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしは今までいちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そうなのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧りこうすぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」

その時に外から「軍艦マアチ」が聞こえてくる。時計を見ると六時。そして最後の部分。

神さまは、在る。きっと、いる。私は、それを信じました。妹は、それから三日目に死にました。医者は、首をかしげておりました。あまりに静かに、早く息をひきとったからでございましょう。けれども、私は、そのとき驚かなかった。何もかも神さまの、おぼしめしと信じていました。
 いまは、――年とって、もろもろの物慾が出て来て、お恥かしゅうございます。信仰とやらも少し薄らいでまいったのでございましょうか、あの口笛も、ひょっとしたら、父の仕業しわざではなかったろうかと、なんだかそんな疑いを持つこともございます。学校のおつとめからお帰りになって、隣りのお部屋で、私たちの話を立聞きして、ふびんに思い、厳酷の父としては一世一代の狂言したのではなかろうか、と思うことも、ございますが、まさか、そんなこともないでしょうね。父が在世中なれば、問いただすこともできるのですが、父がなくなって、もう、かれこれ十五年にもなりますものね。いや、やっぱり神さまのお恵みでございましょう。
 私は、そう信じて安心しておりたいのでございますけれども、どうも、年とって来ると、物慾が起り、信仰も薄らいでまいって、いけないと存じます。

医者が首をかしげるほど早く亡くなったのは、家族の愛情に気付き、包まれ、安心をしたからだろう。妹は異性への愛情を欲していた。しかし、欲したものよりも大きな愛情を受け取ることのできた妹は、幸せを抱きながら亡くなった。

妹の亡くなった顔は幸せな笑みが浮かんでいたに違いない。


※別解釈 実は妹の話は嘘で、M.T.は実在したというのがあります。その考え方でいくと、最後の口笛はM.T.が吹いたものになります。しかし、私はその解釈をしませんでした。ここまで見事に私、妹、そして直接のやり取りの無かった父の心情までも見事に描ききったこの作品に、何かを付け加える必要性を感じなかったからです。

小説の解釈は人間の数だけあって良いと思ってます。別解釈も面白いのですが、私は本編のように感じたいと思いました。