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カーコラム 「1978年 MAZDA SA22C型RX-7の衝撃」

 初代RX-7となるSA22C型は1978年3月に衝撃的なデビューを飾った。

 当時、ラジオ関東(現在のラジオ日本)というAMラジオ局で、毎週金曜日の深夜午前1時から「ザ・モーターウィークリー」という番組を放送していたのだが、確かSA22C型RX-7が発表された当日だったかその週の放送で、いち早く広報車を借り出して一般公開し、その様子を生放送した。

 場所はラジオ関東がある麻布台にほど近い芝公園付近。記者発表直後で、まだディーラーにも展示されていないSA22C型RX-7が見れるとあって、深夜にも関わらず待ちわびたファンが大挙して集まり、あたりは異様な熱気に包まれたのを記憶している。

 生放送のオンエア中はラジオ関東にも問い合わせの電話が殺到し回線がパンク寸前になるなど、現在では想像もできない人気であった。

 SA22C型RX-7はデビュー当時サバンナRX-7と呼ばれた。日本国内では、稀代の快速車・サバンナGT(RX-3)の後継車と位置づけられていた。

 SA22C型RX-7のデビューがセンセーショナルな話題になったのには当時の時代背景が大きく影響している。

 SA22C型RX-7がデビューした1978年は、折しもイラン革命を発端とする第二次オイルショックが始まった年である。1973年のオイルショックの時と同様に原油が高騰し、深夜のテレビ放送の自粛や、日曜・祝日のガソリンスタンド休業などが実施された。

 さらに、第二次オイルショックに加え51年規制をはるかに上回る53年排出ガス規制の真っただ中。とてもじゃないがハイパワー車だのスポーツカーなど夢のまた夢といった社会情勢の中、ピュアスポーツを標榜して燦然とデビューしたのがSA22C型RX-7だったのである。

 マツダの勇気ある決断は、スポーツカーを諦めかけていた日本全国のクルマ好きに勇気と希望を与えた。

 まさにスポーツカーとはこれだ! と言わんばかりの精悍なボディフォルム。低いボンネットフード前方にはスポーツカーの証であるリトラクタブルヘッドライト(格納式ヘッドライト)。0.36という優れたCd値(空気抵抗係数)は爽快な走りを予感させた。

 パワーユニットは130PS(グロス)の最高出力を12Aロータリーエンジンを車体中心軸に近いフロン・ミドシップに搭載。FRながら50.7対49.3(2名乗車時)の理想的な前後バランスを誇る。世界で唯一の実用ロータリーエンジンは、まるで電動モーターのような滑らかにレッドゾーンまで吹け上がった。

 サスペンションは、フロントにストラット式、リヤにはワットリンクを持った4リンク・リジッド式。リヤのワットリンクは、先代RX-3サバンナGTのレース活動で培ったテクノロジーからのフィードバックとして採用されたもので、優れたトラクション性能と路面追従性を発揮した。

 余談だが、初期型のサスセッテイングはノーマルで結構トンがった味付けがされていた。特にリヤにスタビライザーが入ったGTは顕著で、ウェット路面ではかなりナーバスだった。リヤの限界が高い分、滑りだしてからのコントロールが難しかった。そのため、ウェット路面での旋回中におけるアクセルワークとステアリングワークは特に気を使う必要があった。個人的にはリヤのスタビライザーが無いグレード(GT Juniorだったと思う)の操縦性の方がある意味おおらかで好みだった。

 さて、SA22C型RX-7と言えばこの曲。当時CMで使用されていたハーブ・アルパートの「Rise」である。

 ハーブ・アルパートはアメリカ カルフォリニア出身のアーチストで、トランペット奏者、コンポーザーとして活躍、後にA&Mレコードを設立した。

 軽快でありながらどこか気だるいトランペットの音色は、路肩を落ち葉に彩られたワインディングを風のように駆け抜けるRX-7の走りと見事に調和していた。

 それまでの閉塞感と重圧感が去り絶望が希望に変わった1978年。後に日本車の黄金時代と称される1980年代への扉はSA22C型RX-7の登場により押し開かれたのである。

 同じ時代の空気を感じる今こそ、エポックメイキングなスポーツモデルの再臨を願う。ハーブ・アルパートの「Rise」を聞きながら、当時の興奮を呼び戻してほしい。


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