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カーコラム 「Gr.B爛熟期のWRCを席捲した究極のラリーマシン "プジョー 205ターボ16"」

 プジョー205ターボ16の基本コンセプトは、 ' プジョー・タルボ・シュポール ' のスポーティングディレクター、ジャン・トッドの提案が礎となった。

 1983年、プロダクションモデルである205と同じ外観を持つ2台の205ターボ16が完成した。しかし、プロダクションカーをそのベースとした205ターボ16は、開発段階からパッケージングの問題で試行錯誤が続いた。特に深刻だったのが、トランスミッションとエンジンのレイアウトだった。205のリヤが短いため、通常の縦置きでは収まらなかったのだ。

 そこでプジョーのエンジニア達は、トランスミッションはドライバーの後ろ、エンジンはコ・ドライバーの後ろに横置きすることでこの難問を解決した。さらにフロントとリヤのウエイトバランスを改善し、補助的なパーツも含めてクルーの後方に追いやることに成功した。

 次に難航したのが、パワーユニットの選定だった。当時のプジョーは系列も含め350PS~400PSを発生するノンターボエンジンがなかったために、必然的にターボに頼らざるを得なかった。そこで、当時プジョーが生産を予定していた排気量1.9ℓのディーゼルエンジンがベースユニットとして選ばれた。しかし、そうなると今度は排気量の問題が立ちはだかった。

 FIAのレギュレーションでは、ターボエンジンは排気量に1.4のターボ係数がかけられる。そのため、最低重量960kg以内に収めるためには2.5リットル以下の排気量に抑えることが必要だったのだ。結局、ボア/ストローク は83mm×82mmに設定され、排気量は1775ccとなった。そしてこの腰下にDOHC4バルブのヘッドを組み合わせ、ギャレット社製のターボチャージャーを装着してXU8T型エンジンは完成した。

 このパワーユニットは実戦を重ねるごとに進化を続け、ターボチャージャーの大型化やシリンダーヘッドの設計変更、水冷式インタークーラーの採用など、様々な改良が加えられた。その結果、E2(エボリューション2)の最終仕様では、3バールのブーストから実に540PSを絞り出すまでに至った。

 サスペンションはフロント、リヤともにダブルウィッシュボーン式が採用され、ストロークの確保とトラクションの向上が図られた。

 ブレーキはフロント、リヤともにAP社製の4ポッドキャリパーに大径のベンチレーテッドディスクローターが組み合わされた。

ボディワークは新素材のケブラーをふんだんに使用し、十分な強度と軽量化を図っている。E2ではスペースフレームによりリヤシャシーが構成され、さらなる軽量化が図られた。また、E2ではエアロダイナミクスが見直され、フロントウィングのリファイン、リヤウィングの大型化、スカート及びディフューザーの導入など、様々な改良が施された。

 駆動方式は当然のごとくフルタイム4WDだが、前後のトルク配分は固定式ではなく可変式が採用されている。基本の前後トルク配分はグラベルでは33/67、アスファルトでは25/75に設定され、ハンドリングとトラクションのバランスが図られている。

 WRCへの初参戦は84年のツール・ド・コルスだが、プジョーはこれに先立つ83年にサルラのプロモーション・ラリークロスでプロトタイプをデビューさせた。この時、プロトタイプのステアリングを握ったのはジャン=ピエール・ニコラである。205ターボ16はこのイベントで見事2位となり、そのポテンシャルの高さを見せつけた。

 そして、記念すべきWRCデビュー戦であるツール・ド・コルスを総合4位で終えた205ターボ16は、その後、急激に進化を続け、短期間のうちにその戦闘力を高めていった。

 さらに、当時中堅ドライバーのなかでは最も脂が乗っていたティモ・サロネンの参加は、205ターボ16の熟成に拍車をかけた。

 そして、デビュー翌年の85年には早くもティモ・サロネンのドライブによってマニュファクチャラーとドライバーのダブルタイトルに輝いた205ターボ16は、翌86年もユハ・カンクネンのドライブによりダブルタイトルを獲得、2年連続のダブルタイトル奪取という偉業を成し遂げた。

 Gr.B爛熟期に満を持して登場したプジョー205ターボ16は、まさに"究極のGr.Bカー"と呼ぶにふさわしい傑作マシンであった。










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