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カーコラム「1990年、スバル研究実験センターでWRCトップドライバーの"左足ブレーキ "を初体験」

 左足ブレーキングを始めて目の当たりにしたのは1990年、完成間もない富士重工のテストコース「スバル研究実験センター(SKC)」だった。

 その年、富士重工業(スバル)はレガシィでWRC(世界ラリー選手権)に本格参戦を果たした。

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 当時のメインドライバーはアリ・バタネンとマルク・アレン。ともに幾多の優勝経験を持ったトップドライバーである。

 そのマルク・アレンが来日しレガシィRS-RAでデモ走行をするという連絡を富士重広報部から受け、取材のため葛生まで出向いた。

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 SKC内部にあるダート試験場で待っていたのは伝説のドライバー、マルク・アレンその人であった。

 第一印象は「でかい!」。身長は190センチ以上はあるだろう。ややくすんだ金髪にグリーンの大きな瞳。堀の深い顔つきはまさに北欧神話に出てくる巨人そのものだった。

 仕事柄、写真では散々見ているが本物はやはり違う。WRCドライバー独特のオーラが全身から立ち昇っている。ひとしきりインタビューと写真撮影を終え、いよいよデモ走行となった。その時マルク・アレンがフィンラン訛りの英語で言った「Get in ! 」。

 えっ? 横に乗せてくれるの? ポカンとしていると、広報部の女性がヘルメットを手渡してくれた。

 モータースポーツ関連の仕事をしていても、WRCドライバーの隣に座れるチャンスなど、そうはない。アレンの気が変わらないうちにレガシィRS-RAの助手席に座り、シートベルトを締めた。

 「Ready ?」と一言発すると、EJ20TURBOエンジンの回転を6000回転付近上げ、一気にクラッチミート。レガシィRS-RAは、文字通り「カタパルトから弾き出された」ように葛生のダートコースに飛び出した。強烈な加速Gが全身を襲い体がシートバックに圧しつけられた。

 長い直線。クロスミッションのギヤは3速に入ったまま。4速にはシフトアップしない。タコメータはレッドゾーン直前、スピードメーター130kmあたりを指していた。強烈な加速Gは相変わらず続いていた。

 次の瞬間、まだ直線区間にも関わらずダッシュボードに叩きつかられうような減速Gが全身を襲った。と、しかしエンジン音は変わらない。チラッと足元を観るとアクセルペダルを床まで踏みつけたまま、な、な、なんと左足でブレーキペアダルを踏んでいるではないか。つまり、全開と全制動を同時にやっているのである。

 と、次の瞬間、フロントガラスの前の風景がいきなり横に流れ始めた。因みにまだコーナーの遥か手前である。横になった状態で右コーナーに進入。コーナー内側のガードレールが左から右に、まるでパノラマスクリーンの様に流れていく。

 しかし、いかにスバルが誇る最高出力220PSを誇るEJ20TURBOエンジンとはいえ、WRCドライバーのスーパーロングドリフトを維持するには明らかにパワー不足だった。アレンは躊躇なくダブルクラッチを使って2速へシフトダウン。そのまま7000回転でクラッチを繋ぐ。EJ20TURBOエンジンが悲鳴をあげ、レガシィRS-RAはコーナー幅ギリギリまでアウトに膨らみながら再び強烈な加速体制に入った。

 そんな状態でテストコースを5周。貴重な同乗走行は終了した。レガシィRS-RAから降りた時、一瞬フラついた事は語るまでもなかろう。

 ドライバーズシートから降り立ったマルク・アレンに拙い英語で感謝と賛美を伝えると、クルマを指さし「 No engine, More power ! 」と笑いながら言い放った。

 さすがは「Maximum Attack」の元祖である。

 この体験をするまで左足ブレーキングはコーナリングスピードの微調整を行うためと、アンダーステアを殺すための調整手段だと思っていたが、トップドライバーはハイスピードの直線から一気に姿勢を変えるためのキッカケとしても使いこなしていることが判明した。

 そんな高度なテクニックを自由自在に使いこなすWRCトップドライバーはやはりただ者ではない。


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