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カーコラム「WRCメモワール '93 Rally Argentina コ・ドライバーの突然の病院送りで急遽コンビを組んだカンクネン&ニッキーの大快挙」

 予定の時刻になっても現れないユハ・ピロネン。これは変だと思って、ホテルの部屋のドアを開けてみれば、すでに意識不明となっている本人がいた・・・・・・。

 ピロネンといえば、1986年からユハ・カンクネンと組んでいるフィンランド人ナビゲーターである。レイバンのメガネをかけ、北欧人にしては大柄ではないが少し太めのナビゲーター。そして彼と組んだ初年度、カンクネンはプジョー206T16E2でスウェーデン、アクロポリス、ニュージーランドに3勝、2位に2回入賞で初のドライバーズタイトルを獲得した

 さらに翌87年、グループAとなった初年度でこのユハ・コンビは2年連続のタイトルを得た。ピロネンは91年のカンクネン3度目のドライバーズタイトルも含めて、3回もナビゲーターチャンピオンになった優秀なコ・ドライバーなのである。

 93年7月のWRC第7戦アルゼンチンラリー。トヨタワークスドライバーとしてST185セリカGT-FOURをドライブしていたカンクネン・ピロネン組は、スウェーデンで2位、サファリ優勝でシリーズポイントの3位につけていた。当時のアルゼンチンラリーは7月。前戦の真夏のアクロポリスから真冬のアルゼンチンへとWRCは進んだ。そしてレッキを無事に終え、ペースノートは完成していた。あとはスタートを待つだけ、という時に、先の姿でピロネンが発見されたのである。

 幸い、ピロネンにはまだ息があった。早速、ブエノスアイレスの病院にピロネンを送る手配と平行して、トヨタワークスはカンクネンのナビゲーターを探すことになったのである。当時のTTEマネージャーはイギリス人のフィル・ショート。彼はすぐにウェールズ人のニッキー・グリストに電話を入れた。ニッキーは前年までショートのアシスタントとしてTTEで働いていたからだ。その時、ニッキーはまだベッドの中にいた。突然の電話に、とりあえずイギリスからアルゼンチンへと急行し、なんとかスタートに間に合った。

 「助かったのは、それまでフィンランド語だったペースノートを、最近になって英語にしていたこと。だから僕がピロネンのノートを見てもすぐに理解できたんだ。ノートの中身を全部チェックして、カンクネンと相談しながら、多少、僕流に手を入れたよ」と語るニッキー。一方のカンクネンは、ナビが"小さな"ニッキーになり、「今まで僕もピロネンも同じような体重だったけれど、ニッキーは軽いから、右カーブと左カーブでコーナリングの感じが違うんだよね」と、軽くなったナビゲーターの印象を語るのであった。

 この年のアルゼンチンラリーは、現在と同じコルドバをベースとしながらも、より北にあるトゥクマンをスタート地点としていた。トヨタのライバルはレプソールカラーとなったカルロス・サインツのランチャ。そしてミキ・ビアシオンのいるフォード。しかし、カンクネンの強さは圧倒的であった。SS1、トゥクマンでのスーパーSS1に勝つと、3日間もラリーリーダーを守り、25SS中の16か所でベストタイムをマーク。2位のビアシオンに2分近い大差をつけてWRC17勝目をあげてしまった。

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 この勝利はトヨタにとってはWRC30勝目、急に現れたニッキーという小さなナビゲーターは見事に大役を果たし、トップ・ナビゲーターへの道を歩むことになるのである。

 そしてこの年、カンクネン・ニッキーコンビは、1000湖、オーストラリア、RACと勝ち、カンクネン4度目の世界タイトルとなった。


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