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CAR COLUMN

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モータージャーナリストの鳴海邦彦が徒然に綴るカーコラム。
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#toyota

カーコラム「鳴海邦彦 1986年式トヨタ AE86スプリンター・トレノ2ドアクーペGTを語る …

1986年式TOYOTA AE86 スプリンター トレノ 2ドアクーペGT(5.1規制ジムカーナ仕様)スペック …

カーコラム「WRCメモワール 記念すべき90年アクロポリスラリー カルロス・サインツWRC…

 エル・マタドールの異名をとるWRC界のレジェンドドライバー、カルロス・サインツのWRC初勝利…

カーコラム「WRCメモワール '92アクロポリスラリー なぜか同じコーナーで落ちた2台のS…

 1980年のポルトガルラリーでは、フォードワークスのエスコート・マークII、ロスマンズカラー…

カーコラム「WRCメモワール 4台のセリカGT-FOURに150名以上のTTEスタッフ。史上最大の…

 まずは上の写真を見てほしい。これは1993年のサファリラリー、そのスタート前日、車検を終…

カーコラム「WRCメモワール 1000 Lakes Rally'90 ラリー直前に左足に大ケガを負ったカ…

 WRCでは各ワークスチームのプレスコンファレンスがラリースタートの前日にある。それは、199…

カーコラム「WRCメモワール '93 Rally Argentina コ・ドライバーの突然の病院送りで急…

 予定の時刻になっても現れないユハ・ピロネン。これは変だと思って、ホテルの部屋のドアを開…

カーコラム「WRCメモワール "カルロス・サインツ初出場の1990年のアルゼンチンラリー 納得いかぬ転倒の原因は?」

 1988年コルシカからグループAのセリカGT-FOURによるWRCチャンレンジを始めたトヨタだが、より本格的にチャンピオンを目指し、WRCに全戦出場を始めたのは90年からだった。  当時のWRCは現在と違い、全戦出場義務はなく、出場費用がかかりそうなヨーロッパから遠いエリア、ケニア、アルゼンチン、ニュージーランドなどは出場しないワークスもあった。だからトヨタは88年も89年もアルゼンチンにはエントリーしなかった。そのため、90年初出場なのである。ドライバーは若きエース、カ

カーコラム「幸運と悲運。1998年WRC最終戦 " RAC Rally "最終ステージのドラマを振り…

 WRC史に残る劇的なドラマは、1998年のWRC最終戦 英国RAC Rallyファイナルステージ " Morgan …

カーコラム「追憶 TTE オベ・アンダーソン氏の想い出 セリカGT-FOURとカローラWRCar」

 1987年頃だったと思うが、オートテクニック誌の取材でWRCオセアニアラウンドの途中に日本に…

カーコラム「現代のオーパーツとも言える時代を超越した歴史的名車 TOYOTA 2000GT」

 歴史上その時代では考えられない高度な技術で作られた物や、明らかに異なる時代の生物が存在…

カーコラム「KP47パブリカ スターレットとクリスタルキング”大都会”の想い出」

 クリスタルキングの " 大都会 " が大ヒットした1979年、バイトの先輩から譲り受けたKP47型パ…

カーコラム「TA16・TA17型初代カリーナの想い出」

 「決まってるね! チバちゃん!」でお馴染みの " 足のいい奴 " TA16、TA17型初代カリーナ。…

カーコラム「1,000ドル出そう! パプリカは君のものだ!トヨタ パブリカ800」

 トヨタ パブリカ800、空冷2気筒2CU型エンジンを搭載し、パタパタという独特な排気音で街を軽…

カーコラム 「1987年JAF C地区ジムカーナ選手権最終戦 AW11型MR2S/Cセンセーション」

 1987年10月、JAF C地区(関東)ジムカーナ選手権最終戦。  その日、戦いの舞台となった富士スピードウェイCパドック(通称Cパド)は興奮と期待に包まれていた。  最終戦を待たずしてシリーズチャンピオンを決めていた「名人」森田勝也選手が、かねてより熟成急との噂が喧伝されていた次期戦闘マシンAW11型MR2S/C(スーパーチャージャー)を持ち込んだからである。  カッティングシートで綺麗にカラーリングされたマシンがひしめくパドック内にあって、ホワイトボディに「名人」