マガジンのカバー画像

Essay

321
鳴海邦彦が思いつくままに、そして気ままに綴るフリーエッセー。
運営しているクリエイター

#rally

再生

ショートエッセー「Group B」

"Group B"は、人気TVドラマシリーズGame of Thrones(ゲーム・オブ・スローンズ)で"北の王"スターク家の長男ロブ・スタークを演じたRichard Madden(リチャード・マッデン)が、過去の辛いトラウマを克服し、長い苦悩の末にカムバック果たすラリードライバーを演じたショートムービーである。 本作品は2016年の英国王立テレビ協会賞を受賞すると共に、学生アカデミー賞とAFIフェスト審査員大賞にノミネートされた。

再生

エッセー「 Gr.B Wars "AUDI VS. LANCIA"」

 長年に渡りモータースポーツ、特にラリーの頂点とも言えるWRC(World Rally Championship)の世界に身を置いて来たが、アウディとランチャが、その持てる技術の粋を結集して造り上げたGr.Bモンスターマシンで熾烈な覇権争いを繰り広げた80年代初頭が最もエキサイティングで最も面白い時代だった。  アウディ VS ランチャ、革新的な4WD(アウディ・クワトロ)とコンサバティブな2WD(ランチャ・ラリー037)、それぞれの哲学が色濃く反映された美しくも狂暴なモンスターマシンは、ターマット、グラベル、スノー、ラフと、地球上の様々なスペシャルステージで熱く激しい戦いを展開し、世界中のファンを興奮の坩堝に叩き込んだ。 2024年、その狂乱の時代をモチーフに、両社の熱き戦いを描いた映画が公開される。ラリーファンならずとも必見である。 ● アウディ・クワトロ●  現在、世界ラリー選手権を戦う主力マシンは4WD+ターボ車であることが前提条件になっているが、四半世紀前まで、このコンセプトをラリーマシンに投入することは無謀と信じられていた。  それに敢えて挑戦し、その上チャンピオンまでもぎとり、ラリー界の常識を一変したエポックメーカー、それがアウディ・クワトロである。  1981年1月1日にFIAの公認を取得し、開幕戦のモンテカルロ・ラリーから世界ラリー選手権に登場してきたクワトロだが、実はその登場までには入念な準備期間があった。  1978年5月には4気筒のアウディ80をベースに4WDシステムを組み込み、マクファーソン式ストラットのサスペンションと200ターボのブレーキが移植されたラリー用プロトタイプが製作された。  1979年には当時No.1ラリードライバーだったハヌー・ミッコラがニューマシンのテストに招かれた。  ミッコラは僅か30分ステアリングを握っただけで、クワトロをラリーマシンとして仕上げるためのテストドライバー契約をアウディと交わした。  クワトロのラリーカーとしてのポテンシャルはそれほどインパクトの強いものだった。  WRC参戦を目的にアウディ・モトールシュポルトが創設され、1981年からミッコラと女性ドライバーのミシェル・ムートンをドライバーに起用し、最高出力360馬力を搾り出すDOHC5気筒の縦置きエンジンとフルタイム4WDを搭載したクワトロで活動を開始した。  デビュー戦のモンテカルロでは2台でもリタイアとなったが、雪のスウェーデンではミッコラが優勝を果たす。  後年ミッコラは「スウェーデン以外のドライバーとして初めてスウェディッシュラリーを制したドライバーという名誉を与えてくれたマシンだ」と語っている。  ミシェル・ムートンが女性ドライバーとしてだけでなく、トップドライバーとして認められたのもクワトロがあればこそだった。  ムートン自身、「クワトロがなかったらサンレモでの優勝できなかっただろう。今の私があるのはこのマシンがあったから、一番好きなクルマだし、一番好きなチームだった」と懐かしそうに語っている。  1982年にはスティグ・ブロンキストが加わりメイクスチャンピオンを獲得したが、ドライバーシリーズは2、3、4位という成績で終わり、ドライバーズチャンピオン座はライバルのロールに譲った。  Gr.Bの過渡期となった1983年、ミッコラは4回の優勝でチャンピオンとなったが、メイクスタイトルは逃した。  1984年5月にエボリューションモデルのクワトロスポーツが公認を取得した。  ウォルター・ロールを加え、4人のドライバーと揃えたアウディは、メイクスとドライバーズのダブルタイトルを手中に収めた。  しかし、Gr.Bの禁止、アウディのWRC活動中止もあり、パワー的に450~600馬力までパワーアップしていたクワトロスポーツは、それ以降、北米のIMSAレースやパイクスピーク・ヒルクライムといったパワーを競う競技にしか活路を見いだせなくなっていった。  アウディ・クワトロが誕生してから42年、今や世界ラリー選手権のトップマシンといえば4WDターボがベースのワールドラリーカーだが、アウディ・クワトロが存在しなければ今のワールドラリーカーは出現し得なかった。 アウディ・クワトロこそ、今をときめくワールドラリーカーの原点なのである。 ●ランチャ・ラリー037●  1983年、前年の移行期間を経てWRC(世界ラリー選手権)の車両規定はそれまでのGr.4からGr.Bへと変更された。  Gr.4の公認を取得するには年間400台(当初500台)の生産台数が義務付けられていたが、Gr.B規定の導入により年間僅か200台を生産するのみでホモロゲーションの取得が可能となった。    Gr.4時代、ベルトーネの鬼才マルチェロ・ガンディーニによる前衛的且つ未来的なボディフォルムに、フェラーリ・246ディノのV6パワーユニットをミドマウントした'ストラトス'で輝かしい戦績を誇ったランチャは、新たなGr.Bマシンとしてストラトスの正常進化モデルとでも言うべきラリー037を開発、実戦に投入した。  フィアット131アバルトのエンジンにスーパーチャージャーを装着したパワーユニットは、中速域でのレスポンスとトルク特性を重視したセッティングが施された。エンジンのチューニングはアバルトが手掛け、当初1998ccだった排気量は、1984年のエボリューション2では2111ccまで拡大され、最高出力も325馬力までパワーアップされた。  サスペンションは前後ともダブルウッシュボン式、リヤのショックアブソーバにはダブルダンパー方式を採用している。  1983年、4WDマシンであるアウディ・クアトロと激戦を演じ、僅か2ポイント差でチャンピオンカーに輝いたラリー037は、2WD最後のチャンピオンカーとしてWRCファンの心に刻まれることとなった。

再生

ショートエッセー「夭折の天才ラリードライバー」

1986年5月2日 ツール・ド・コルス レグ2 SS18 " コルテ・タベルナ "。 開幕戦のモンテカルロを制し波に乗るランチャチームの若きエース、ヘンリ・トイボネンがドライブするランチャデルタS4が、スタートから7キロ地点の緩い左コーナーでコースオフし崖下に転落。 運悪く車体は炎上し、乗員2名が死亡するという大惨事となった。 ヘンリ・トイボネン、亨年30歳。

エッセー「加速と遠心力の狭間」

 かつてハヌー・ミコラはアウディの開発陣にこう言った。  「ともかくまっすぐ走りクルマを作ってくれ。曲げるのは僕らの仕事だから。」  その言葉を端的に表すようなヴァルター・レアルの走り。  アウディ・クアトロは、" 点と点を線で繋ぐ " 典型的なオールドターボマシンの走りそのもの。  直線は怒涛の加速。コーナーからコーナーへ、その走りはまるでワープ。  Gr.Bという狂気の時代に君臨したティラノザウルス、それがアウディ・クアトロである。

再生

エッセー「追悼 夭折の天才ラリードライバー " Henri Toivonen(ヘンリ・トイボネン)"」

1986年5月2日 ツール・ド・コルス レグ2 SS18 " コルテ・タベルナ " 。 開幕戦のモンテカルロを制し波に乗るランチャチームの若きエース、ヘンリ・トイボネンがドライブするランチャデルタS4が、スタートから7キロ地点の緩い左コーナーでコースオフし崖下に転落。 運悪く車体は炎上し、乗員2名が死亡するという大惨事となった。 ヘンリ・トイボネン、亨年30歳。 その早すぎる死を悼み合掌。

エッセー「実録 あるラリー屋さんの恐怖体験」

 その昔、とある関東近県の某ラリーストから聞いた恐怖体験談。  その晩もいつもの林道での練習だった。  どん詰まりまで約2キロの林道を5本くらい走り、上りゴールのどん詰まりやや広くなった所にクルマを止め、一休みしていた時のこと。  「おい、なんかさっきから誰かに見られているような気がするんだな??」  「えっ? 気のせい、気のせい。もう一本行ってあがろうぜ。」  結局、もう一本走ってその日は解散、町まで降りてきて風呂入って寝たそうな。  明けて翌日。  午後にな