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Essay

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鳴海邦彦が思いつくままに、そして気ままに綴るフリーエッセー。
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2023年12月の記事一覧

再生

エッセー「 Gr.B Wars "AUDI VS. LANCIA"」

 長年に渡りモータースポーツ、特にラリーの頂点とも言えるWRC(World Rally Championship)の世界に身を置いて来たが、アウディとランチャが、その持てる技術の粋を結集して造り上げたGr.Bモンスターマシンで熾烈な覇権争いを繰り広げた80年代初頭が最もエキサイティングで最も面白い時代だった。  アウディ VS ランチャ、革新的な4WD(アウディ・クワトロ)とコンサバティブな2WD(ランチャ・ラリー037)、それぞれの哲学が色濃く反映された美しくも狂暴なモンスターマシンは、ターマット、グラベル、スノー、ラフと、地球上の様々なスペシャルステージで熱く激しい戦いを展開し、世界中のファンを興奮の坩堝に叩き込んだ。 2024年、その狂乱の時代をモチーフに、両社の熱き戦いを描いた映画が公開される。ラリーファンならずとも必見である。 ● アウディ・クワトロ●  現在、世界ラリー選手権を戦う主力マシンは4WD+ターボ車であることが前提条件になっているが、四半世紀前まで、このコンセプトをラリーマシンに投入することは無謀と信じられていた。  それに敢えて挑戦し、その上チャンピオンまでもぎとり、ラリー界の常識を一変したエポックメーカー、それがアウディ・クワトロである。  1981年1月1日にFIAの公認を取得し、開幕戦のモンテカルロ・ラリーから世界ラリー選手権に登場してきたクワトロだが、実はその登場までには入念な準備期間があった。  1978年5月には4気筒のアウディ80をベースに4WDシステムを組み込み、マクファーソン式ストラットのサスペンションと200ターボのブレーキが移植されたラリー用プロトタイプが製作された。  1979年には当時No.1ラリードライバーだったハヌー・ミッコラがニューマシンのテストに招かれた。  ミッコラは僅か30分ステアリングを握っただけで、クワトロをラリーマシンとして仕上げるためのテストドライバー契約をアウディと交わした。  クワトロのラリーカーとしてのポテンシャルはそれほどインパクトの強いものだった。  WRC参戦を目的にアウディ・モトールシュポルトが創設され、1981年からミッコラと女性ドライバーのミシェル・ムートンをドライバーに起用し、最高出力360馬力を搾り出すDOHC5気筒の縦置きエンジンとフルタイム4WDを搭載したクワトロで活動を開始した。  デビュー戦のモンテカルロでは2台でもリタイアとなったが、雪のスウェーデンではミッコラが優勝を果たす。  後年ミッコラは「スウェーデン以外のドライバーとして初めてスウェディッシュラリーを制したドライバーという名誉を与えてくれたマシンだ」と語っている。  ミシェル・ムートンが女性ドライバーとしてだけでなく、トップドライバーとして認められたのもクワトロがあればこそだった。  ムートン自身、「クワトロがなかったらサンレモでの優勝できなかっただろう。今の私があるのはこのマシンがあったから、一番好きなクルマだし、一番好きなチームだった」と懐かしそうに語っている。  1982年にはスティグ・ブロンキストが加わりメイクスチャンピオンを獲得したが、ドライバーシリーズは2、3、4位という成績で終わり、ドライバーズチャンピオン座はライバルのロールに譲った。  Gr.Bの過渡期となった1983年、ミッコラは4回の優勝でチャンピオンとなったが、メイクスタイトルは逃した。  1984年5月にエボリューションモデルのクワトロスポーツが公認を取得した。  ウォルター・ロールを加え、4人のドライバーと揃えたアウディは、メイクスとドライバーズのダブルタイトルを手中に収めた。  しかし、Gr.Bの禁止、アウディのWRC活動中止もあり、パワー的に450~600馬力までパワーアップしていたクワトロスポーツは、それ以降、北米のIMSAレースやパイクスピーク・ヒルクライムといったパワーを競う競技にしか活路を見いだせなくなっていった。  アウディ・クワトロが誕生してから42年、今や世界ラリー選手権のトップマシンといえば4WDターボがベースのワールドラリーカーだが、アウディ・クワトロが存在しなければ今のワールドラリーカーは出現し得なかった。 アウディ・クワトロこそ、今をときめくワールドラリーカーの原点なのである。 ●ランチャ・ラリー037●  1983年、前年の移行期間を経てWRC(世界ラリー選手権)の車両規定はそれまでのGr.4からGr.Bへと変更された。  Gr.4の公認を取得するには年間400台(当初500台)の生産台数が義務付けられていたが、Gr.B規定の導入により年間僅か200台を生産するのみでホモロゲーションの取得が可能となった。    Gr.4時代、ベルトーネの鬼才マルチェロ・ガンディーニによる前衛的且つ未来的なボディフォルムに、フェラーリ・246ディノのV6パワーユニットをミドマウントした'ストラトス'で輝かしい戦績を誇ったランチャは、新たなGr.Bマシンとしてストラトスの正常進化モデルとでも言うべきラリー037を開発、実戦に投入した。  フィアット131アバルトのエンジンにスーパーチャージャーを装着したパワーユニットは、中速域でのレスポンスとトルク特性を重視したセッティングが施された。エンジンのチューニングはアバルトが手掛け、当初1998ccだった排気量は、1984年のエボリューション2では2111ccまで拡大され、最高出力も325馬力までパワーアップされた。  サスペンションは前後ともダブルウッシュボン式、リヤのショックアブソーバにはダブルダンパー方式を採用している。  1983年、4WDマシンであるアウディ・クアトロと激戦を演じ、僅か2ポイント差でチャンピオンカーに輝いたラリー037は、2WD最後のチャンピオンカーとしてWRCファンの心に刻まれることとなった。

エッセー 「PCP(フェンサイクリジン)a.k.a.エンジェルダスト」

ゾアントロピー現象=獣化現象。  PCP(フェニル・シクロヘキシル・ピペリジン、通称エンジェルトダスト)の強力な幻覚作用により、人体と精神の解離現象が発生、それに伴い理性・感情を支配する大脳新皮質の活動が抑制され原始的な大脳古皮質の活動が活発化、結果、人間的理性を失い、動物的ま凶暴且つ残虐な行動に走る。 大脳新皮質の抑制から開放された肉体は、化物じみた凄まじい力を発揮する。  1976年6月にNYPD(ニューヨーク市警)管轄内で発生した " ゾンビ事件 " は、PCP乱用