1980年の小学生が想い描いた2020年
1月にポールマッカートニーが、日本入国時に大麻所持で捕まり、その年の暮れの12月8日にジョンレノンが暗殺されるという、ビートルズで始まり、ビートルズで終わった1980年。
この年、私は小学一年生だった。
幼稚園の卒園式には、海援隊の歌う「贈る言葉」が流れていたが、同曲が主題歌だった『3年B組金八先生』の1stでデビューした『たのきんトリオ』が、小学校に上がるやすぐさま、トップアイドルになる。
松田聖子、柏原芳恵、河合奈保子なども1980年デビューと、アイドルがテレビの真ん中にいた時代で、TBS系で木曜日の9時より放映されていた、サ・ベストテンを楽しみにしていたし、夏にはアイドルの水泳大会を見ていたのを思い出す。
このころの私の楽しみと言えば、トミカを集めることと、畳の縁を道路に見立て、トミカを走らせることだった。
北関東の片田舎に住む子供にとって、クルマはあこがれの存在だったから、新車が出れば、新聞の全面広告を切り抜いて、ずっと眺めていた。
そんなわけで、当時は、クルマの名前を英語表記で書くためにアルファベットを覚えたり、TurboやTwincamという言葉を見聞きして、どんな構造なのか、家にあった図鑑や書店のカー雑誌を立ち読みして勉強していたのを覚えている。
だが、将来はと言えば、さほど夢を持っていなくて、父親が勤めていた会社に勤められれば、ということぐらいしか考えてなかった。同社は総合電機メーカーで、車載電装機器を作る事業部門が隣町にあったから、そこで働けたらいいなぁというのがささやかな夢であった。
当時は、カーエレクトロニクスという言葉が出始め、クラウンやセドリックに電子制御の燃料噴射装置が搭載され、大衆車にもオートマチック車が増えてきた頃だったという時代の背景もあったんだろうとも思うが。
大学まで自宅の近くにあったから、地元の学校を卒業したら、そのまま地元の企業に入社をするのだろうと思っていたし、30歳台で係長、40代で課長、50代には部長になれるか?なんていう人生かと思い描いていた。
きっと、どこかで海外勤務をするのかな?とも思っていたから、せっせとアルファベットを学んでいたのかもしれない。
そして、40年後のじぶんは、課長級ぐらいで、工場近くに広い庭のある一軒家を買って、スカイラインGTに乗ってるといいな、と夢見ていた。
当時のスカイラインGTは、いまのBMWの3シリーズみたいなステータスを持っていて、Theいいクルマ!なポジションであった。
そして、父親は火力発電所や水力発電所などの発電設備の入札価格の損益分岐点を見積り、受注後はプロジェクトが予算内に収まるよう現場を走り回る、今でいうPM職で、入札時に工場見学という大義名分のもと、担当営業とともに電力会社の購買担当を接待するのも大事な任務だったこともあり、いつもスーツをびしっと着ていた。
だからか、私も大人になったらダーバンのスーツに、デパートでお仕立てしたイニシャル入りのシャツ、靴はリーガルな感じになっていると思っていた。
当時、日本は世界トップレベルの工業国であり、アメリカに自動車の生産台数で迫り、テレビは日本メーカーがアメリカのメーカーを駆逐してしまった頃だった。
そう、当時の日米は、今の韓国や中国と日本のような関係であった。
だから、日本のメーカーに勤めていれば、安泰だろうな、と思っていたのかもしれない。
あれから40年
2020年にタイムスリップすると、憧れのスカイラインは、今もなお昔の名前で出ています!とはいえ、もはや風前の灯火であり、そもそも日産自動車の存続すら危うい。
ダーバンを作っていたレナウンは倒産であり、お仕立てをしてもらいたかった地場のデパートである伊勢甚も、既に廃業しており今はない。
子供の頃、将来勤める会社だと信じて疑わなかった日立製作所も、集中と選択を進め、総合の看板を下ろしつつある。
そのライバルだった東芝は…もはや死に体である。
それにしても、小学1年生当時に現存しない産業に身を置くことになるとは、超保守的だった当時の私には想像できなかった。
ただ、絶対的有利な存在だと信じて疑わなかったものが、どんどん崩れ去る頃に社会人生活をスタート(長銀や山一証券の破綻)していたので、振り切れたのかもしれない。
IT業界、それもインターネット系に身を置く今となっては、ダーバンはおろかスーツ自体日常で着ることもなく、ジーンズパンツにB.Dシャツで足元はスニーカー姿で出勤。
もちろん、ネクタイなんて冠婚葬祭でつけるものでしかない。
常磐線沿線に住んでいるのは、奇しくも一致しているが、23区内のマンションに住んでいるにもかかわらず、マイカーは山で乗るのが似合うSUVである。
高校まで全くモテなかった私は、もしかしたら「結婚できないかもしれない」と思っていたが、しっかり嫁さんをGETし、可愛い娘が二人もいる。
まさに、小学校1年生からの激動の40年を経て、想い描いていた未来と現実とのギャップは大きい。
今の小学一年生の40年後は?
今、私の次女がちょうど、小学1年生である。
彼女が、私の年齢になる頃の世の中は、私の体験した40年よりもはるかに変化しているに違いない。
なぜなら、コロナ禍にあり、自宅で在宅勤務をしながら、子供達の世話をする生活になるとは、1年前の自分にも思い描けないぐらい、そのピッチは増しているような気がするからである。
彼女に将来はと問えば、40年前の私のように、それほど大きな夢はないような感じで、母親と同じ銀行員か、父親と同じインターネット企業に勤めるか?なんて、言っているが、どうなるんだろうか。
唯一、断言できるのは、今ある産業分野が丸っと無くなるようなパラダイムシフトが起きているのではないか?
例えば、経理業務や営業事務などは、早々にロボット化されてなくなるだろう。だが、アシスタント業務はむしろコンシェルジュのような姿に変化していくだろう。
クラウドファンディングではないが、企業の資金調達も大きく変わる分野だろうし、3Dプリンタが進化すれば、一人一人が好きなデザインの工業製品を各地にあるミニファクトリーで直接購入できるようになり、いわゆる設備産業が崩壊するかもしれない…
きっと彼女たちが大人になる頃には、今はない産業が主流になっていて、いまのインターネット産業は、もはや電子土管のようなものになっているのかもしれない。
未来は、永遠に計り知れないものであるからして…
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