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夢を描くと生きる力が湧いてくる。夢へのチャンスは瞬時の選択を迫ってくる。夢が本物かどうかを神様が試すためだから。

 2001年がん発病後生きる目標を失い、ただ家族を守るためだけに仕事をしていた。そんな生きる屍状態であった僕は、2002年夏に新入社員の面倒を見ることになり、新たな夢と希望を見出した。彼らのために最高の研修を提供したいと考え、前向きに生き始めた。同時に如何なる環境に陥っても家族の生活を守り自分の治療費を稼ぎだす研修スキルの獲得も目指すことにした。  

 猛烈に努力しているうちに自分自身が変わっていった。活き活きと人生を楽しみ始めた。自分自身が活き活きと人生を楽しみ始めると、新入社員たちも活き活きし始めた。発病して1年経過したところであった。このころ描いた夢は社外から講演を依頼されるような講師になることであった。この後、夢の実現への道に対し度重なる「試練というチャンス」と「ナビゲーター」の出現を実感した。

 研修部門では当初得意であったプレゼンテーションから教え始めた。ある日、インストラクター講習を受けてみないかと勧められた。その日程は既に仕事が入っていたがどうしても受講したかったため、交渉しキャンセルした。講習会で教えて頂いたことは目から鱗であり、今まで自分は何をしてきたかと反省し一から学び直すことを決意した。それからの3か月間はプレゼンのリハーサルを行いVTRを撮っては見直し自らがディレクターの立場に立ってOKを出すまで練習を繰り返し本番に臨んだ。「TAKE5」と呼ばれている5回繰り返すとOKレベルに達することも検証できた。

 論理構成も大胆な発想で組むようにした。失敗したらプレゼンの依頼が減るだけである。それは社員が僕に頼らず自分自身で実践するようになる機会が増え研修担当者としては良いことだと考えた。ところが診療の実態に大胆に切り込んできて判りやすいと医師会勉強会で拍手喝采となってしまった。それ以降プレゼンの依頼が増えて行った。そして、経験値が急増しスキルは身体化していった。

 プレゼン指導も数多くやってきた。新入社員にはお手本を示すことが一番であった。一番は絶対的な信頼感を得られることであった。ここで求められるスキルは、新人のプレゼン内容を見て、瞬時にお手本を示すことだった。最初は苦しかったが、その後何百回も繰り返している内に瞬時に要点を把握しストーリーが湧いてくるようになった。これは聴く技術やフィードバック能力の向上に繋がった。

 新人たちは欲張りで、プレゼン以外のスキルもお手本を求めてきた。この要望に応えるため、また必死に勉強し、他の企業研修内容も調査した。ある日、駅の売店で一冊の本を購入した。巻末に実践事例紹介が掲載されていた。それは大学時代の後輩が務めている企業であった。早速連絡を取り情報収集した。その後輩は親身なってそれ以外の実践効果が高い研修プログラムを紹介してくれた。

 高額なセミナー費用に躊躇し会社に受講費用を交渉したが、時間が掛かると判断したためプライベートで受講することにした。僕には生きる時間がどれだけ残されているか判らなく焦っていたことと、出来るだけ早く新人たちに研修してあげたかったためである。その後次から次へと自己投資を繰り返した。様々なスキルは自然と融合し合い、プレゼンテーションスキルの幹を太くしていき、丸々とした幹の切り方により多様な研修に対応できるようになって行った。


 準備が整うとチャンスが舞い込んでくる。夢への懸け橋となる医療現場で講演する機会を与えられた。


 大胆な切り口でプレゼンテーションをしているとある日、「久田さんの顧客視点に沿った内容は少し工夫すると医療接遇研修になる。是非病院で研修してほしい。準備しておいて」という人物が突然現れた。そこにニーズがあると考えまた必死に勉強を始めた。不思議なことにすぐに師匠となる人物が目の前に現れた。この領域はクローズな世界でありあまり教えないが僕には研修を見せてくれることになった。これをベースに研修プログラムを構築していった。

 最初は練習気分で昔担当していた病院の薬剤部でやってみようと考えた。薬剤部長に提案すると、院長に話が伝わり病院職員全体が対象となり、大きな会場を用意してくれてカラダひとつで来いと言われた。参加者は150名。また猛烈に努力し準備した。この時は接遇のスキルと理論中心で話をしていた。しかし、この内容はこの一回だけとなった。なにか違うと感じたからである。もっと患者の気持ちが分かってもらう必要があるのでは、自分はそれが出来ると考えた。自分自身の病気のことはそれまで伏せていたが、勇気を持って開示し講演内容に取り入れた。結果は医療者おの心にすっと入るようでありそれまでのマナー中心の研修とは異なり高く評価をして頂けた。これが現在の講演内容の原型となっている。研修幸いなことに僕がメーカー勤務ということもあり院長・看護部長、事務長からダイレクトなフィードバックを頂けた。中には厳しい内容もあった。そのお陰で徐々に内容を刷新し医療現場の実情に合う現在の講演内容に行き着いた。発病して2年半経過して頃の話である。既に800回以上講演している。

 

 夢への想いを持ち続けるとチャンスは向こうからやって来る。

 プライベートで参加したセミナーで教育担当の看護師長と知り合った。看護協会でも仕事をしているとのことであり、「プレゼンテーションくらいは教えられるよ」と伝えておいた。数日後、協会会長から電話があった。「コーチングを教えて下さい」。プレゼンテーションとは異なる依頼内容であり自信がなく少し躊躇した。そこで「いつですか?」と質問すると「一年後です。」一年後なら準備はできると考え引き受けた。出来合いのプログラムを学ぶことは避けオリジナルでプログラムを描くことにまた猛勉強が始まり、成功者の法則を研究しそれを支援するスキルを磨いた。受講生は朝来た時と夕方帰る時では明らかに変わり、明るく元気になると事務局が驚いてくれた。

 さらにチャンスが降り注いてきた。某病院薬剤師会の研修会で服薬指導ロールプレイを担当するため幹事会に参加していた。ロールプレイについて質問される度に「シナリオだけ準備してください。あとは大丈夫。僕はプロだから」と言い続けた。幹事会が終わった後、「あの人、もの凄いオーラを感じる」と話題になったらしい。

 僕の研修の前に現場の薬剤師が服薬指導についての講演をする予定であったが、急遽都合が悪くなった。すると幹事会から「あの人に話してもらえばいい。話が聴きたい」ということになった。あの人とは不思議なオーラを放つ僕のことだった。現役薬剤師に製薬会社社員が服薬指導を教えるというよくわからない展開であったが、研修が終わった後の状態を想像するとワクワクした。凄いことになりそうだ。事務局から案内状作成の依頼が来た。「明日から服薬指導が変わる」というサブタイトルにした。一ヶ月間掛けてプログラムを作成した。その間、薬剤師仲間からアドバイスを貰った。

 結果は大盛況となり描いたイメージ通りとなった。その後薬剤師会で講演する機会が急増した。そして、これがキッカケで東海薬剤師学術大会ランチョンセミナーでの講師の話が舞い込んだ。夢は大きく膨らんでいった。この学術大会ではその後4回ランチョンセミナーで講演することになり、様々な切り口で内容を検討することが出来た。

 この頃、母校の薬学部から非常勤講師を依頼された。自分が母校の教壇に立つとは想像もしていなかっただけに感激した。と同時に後輩たちに教える以上は薬剤師についてもっと知らなければという想いに駆られた。病院薬剤師はMR時代に毎日のように語り合い業務内容は把握していた。しかし保険薬局についてはブラックボックスであった。そして、薬剤師の在宅訪問が始まりかけた時期であったため、ここにフォーカスを当てて勉強することにした。それが日本在宅薬学会の前身のシンポジウム、HIP研究会そしてJ-HOPであった。

 セミナー受講時代から自己投資費用を回収するため最前列に座る習慣があった。そして、積極的に質問してきた。これは研修担当者としても受講者にも求めていた。率先垂範。アウェイを感じる薬剤師勉強会でも貫くことにした。今でも手を挙げる瞬間、心拍数が上がり、マイクの前で足がガクガクすることがあるが、この機会を逃すと次がないと考え自分を奮い立たせてきた。お陰様で変わった奴がいると最初は警戒されつつも親しく付き合ってくれる仲間が増えて行った。

 試練を乗り越えるとさらに夢が近づいてくる。

 親しくなった仲間とは本音で語り合うようになった。元々営業目的で参加している訳ではないため相手の肩書には関心がなかった。薬局業界の地図すら把握していなかったため、大企業の社長であろうと気さくなおじさんとしか思っていなかった。現在もそれは変えないようにしている。友人としてお付き合いしたいからである。そんな関係を続けていると本音の相談や研修依頼を受けるようになって行った。メーカーの立場としても仲間から声を掛けられる機会が増えた。遜ることなく本音でメーカー側の意見を言うからだそうだ。

 本社勤務になった9年前から全国の仲間と知り合う機会が急増した。大きなきっかけは50歳の誕生日「生誕祭」であった。 冗談でSNSに書いたことが瞬く間に広まり全国7か所で開催して頂けた。のべ350名が集まってくれた。初対面の方も多くいた。このイベントは全国に仲間がいることと実感でき勇気を得られた。また僕のために多くの方が時間とお金を掛けて集まってくれたことに言葉では言いようのない感謝の気持ちが湧いた。今でも思い出すたびに胸が熱くなる。これをきっかけに多くの仲間からさまざまな研修依頼を受けるようになり経験値を高めることが出来、さらに仲間が増え、また依頼されるという好循環につながった。

 20年前の今頃は、夢を失い生きる希望を見出せず生きる屍だった。新たな夢を持ち鮮明に描くと試練というチャンスが舞い込んできた。そこへのチャレンジこそ生きる力となった。同時にナビゲーターが出現し僕を導いてくれた。がんになっても病気になっても出来ることはいっぱい残っていて何も変わらない。ただ気持ちが落ち込んでしまい見えなくなっているだけだ。病気をしていなくても誰しも生まれたその日から死に向かってカウントダウンしている。遺された人生を大切に過ごして欲しい。


 当たり前に過ごしていることが当たり前では無いことに気づくと感謝の気持ちが芽生える。「朝、目が覚めたこと」「食事が取れること」「人と出会えたこと」「声を掛けてもらえたこと」すべてに感謝の念が沸く。しあわせです♥感謝

 辛い状況やネガティブな気持ちに包まれたときに、最後に「しあわせです♥感謝」とつぶやいてみる。「躓いて転んだ。しあわせです♥感謝」「風邪を引いた。しあわせです♥感謝」「がんになりました。しあわせです♥感謝」感じ方が変わってくる。気持ちはポジティブに変わる。


 ひとを幸せにするには、自分自身がしあわせである必要がある。自分の感情を絶えず意識ししあわせを感じられるようにするにはこの言葉は素晴らしい力を持っていると考えている。

 若くして死を見つめそこから生を感じ取れた経験や当たり前なことにしあわせを感じ取れるようになった経験を今後も多くの仲間に伝えていきたい。

しあわせです❤感謝


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