見出し画像

14.漫才の歴史から見る「M-1グランプリ」

12/19(日)の放送日まで2週間を切った『M-1グランプリ(以下、M-1)』。前回に続き、今回も「まだM-1を(ちゃんと)見たことがない人」に向けて、今年こそM-1を視聴したくなるような内容を書こうと思う。


はじめに。
期待されていたら申し訳ないので先に伝えておくと、このnoteには、
準決勝のネタを見た僕の感想
決勝に残ったコンビ9組の紹介
優勝コンビ予想
といった、僕の主観を交えた内容は一切書かない。そういうnoteが読みたい方は検索ページまで戻って欲しい。

そういった内容が書かれたnoteはたくさんあるし、僕も好きでよく読む。
ただ、短期間とはいえ過去に「お笑い」をかじっていた僕のような人間が、辞めた今、その「お笑い」に優劣をつけて、公の場で自分の感想を発信するのはなんか違うなーと思うので、このnoteには主観的な内容は書かない。
それは、僕なりの「お笑い芸人」や「漫才」に対するリスペクトでもある。

今年のM-1を視聴するにあたり「それは番組を見てのお楽しみ」という部分は残しておきたいので、このnoteではあくまで「M-1という番組の楽しさ」「漫才の面白さ」を伝えたい。

・なぜM-1について語ろうと思ったか
・M-1グランプリという番組の面白さ

については、こちらの記事を見て欲しい。






前回の記事の読者から「M-1のMが漫才って知らなかった」という貴重な声をいただいた。

いやいや。スーツを着たおっさん2人がマイクの前で話してるんだから漫才の大会で、Mはその頭文字に決まってるやろ


と内心思ったものの、同時に、「いやちょっと待てよ…」と思った。確かにM-1の「M」が「漫才」の頭文字ということは知っているが、

スーツを着たおっさん」が「2人」で「マイクの前で話す

ことが本当に「漫才」なのか?そういった「漫才」の基本的な概念について知っておくことは、昨今のM-1を楽しむ上で最重要事項だと思う。(理由はのちほど)

M-1が「漫才」の大賞を決める番組なのであれば、まずはその漫才について知っておいて損はない。

漫才(まんざい)は、2人ないしそれ以上の複数人による寄席演芸の一種目。通常はコンビを組んだ2人によるこっけいな掛け合い、言い合いで客を笑わすものを言う。平安時代以来の伝統芸能「萬歳」から発展したもので、もとは鼓などを持ち唄などを交えるのが一般的であった。今日では音曲を交えるものから社会風刺まで多岐にわたり、寄席だけでなく映画・テレビ・ラジオなど多くの媒体で人気を博している。

Wikipedia「漫才」より

Wikipediaによると漫才の歴史は古く、平安時代まで遡るらしい。ざっくり概要が分かったところで、その歴史を振り返ってみよう。






1. 「萬歳」から「万才」、そして「漫才」へ
2.漫才スタイルの多様化、そして漫才ブームへ
3.漫才の革命、そして2度目の漫才ブームへ
4.『M-1グランプリ』が漫才に与えた影響

1.「萬歳」から「万才」、そして「漫才」へ

調べ始めていきなり意外なことが分かった
漫才と落語を比べた時、なんとなく落語の方が漫才よりも歴史が古いと思っていたが、江戸時代に落語が誕生する500年も前から、漫才のルーツである「萬歳」という芸が存在していたのだ。

「萬歳」は新年に行う祝いの話芸であり、土地の名を掲げた「尾張萬歳」(愛知県西部)、「三河萬歳」(愛知県東部)などがその代表的な例である。その主催権を持つ人を「太夫(たゆう)」、その相方として雇われる人を「才蔵(さいぞう)」と呼び、「太夫=ツッコミ」「才蔵=ボケ」というように、現在の漫才に通じる役割分担で行うペア芸だった。

ただ、スタイルは現在のように2人でしゃべっているだけではなく、むしろしゃべりはあくまでオマケ。楽器を使って歌い、その合間にしゃべるというものだった。

そして明治の終わり、卵売りの「玉子屋円辰(たまごや えんたつ)」が卵の買い付けで大阪名古屋を往復する最中に、「尾張萬歳」「三河萬歳」から芸を盗み、自らの客寄せの際に披露した。その芸を見た興行師が「萬歳」を「万才」として舞台化したことにより大阪で広まったのだが、1900年に円辰が芸人として初めて舞台に立ったのが「漫才」の始まりという説が濃厚だ。

昭和に入り「万才」を「漫才」と変化させたのが、“近代漫才の父”「横山エンタツ花菱アチャコ」といわれている。「万才」から音楽の要素をなくししゃべりの部分のみにしたことから、今にも続く漫才のスタイルがここに確立した。

【ポイント】
ルーツである「萬歳」「万才」の頃から、「ツッコミ・ボケ」という役割は存在した。
当初はしゃべりではなく、楽器を演奏し歌うことがメインの、2人で行うペア芸だった。


2.漫才スタイルの多様化、そして漫才ブームへ

昭和25年(1950年)ころ、“爆笑王”「中田ダイマル・ラケット」の3秒に一回笑わせる画期的な「しゃべくり漫才」の登場により、漫才スタイルのベースが広がる。中には、落語や歌舞伎の演目をアレンジしたり、ストーリーを重視した漫才も現れ出した。

そんな中、“現代漫才の父”「横山やすし・西川きよし(通称:やすきよ)」は、それまで分業制だったツッコミとボケを、担当を決めずに2人のどちらもが行うという、革新的なスタイルを生み出し、1960年代の演芸ブームを牽引した。さらに、1979年から放送を開始した番組『花王名人劇場』によって、演芸ブームは漫才ブームへ。その人気は衰え知らずだった。

一方、東京の寄席に初めて「万才」が登場したのは大正6年(1917年)ころ。当時落語が主体だった東京の寄席において「万才」は「色物」だった。今でもその上下関係は残っており、浅草の演芸ホールではトリが「落語」で、漫才はその合間に行う関西ではその逆だ。

大阪で「しゃべくり漫才」が流行った昭和25年(1950年)ころ、「コロムビア・トップ・ライト」の、世相や不満をブツブツ愚痴る「ぼやき漫才」に代表される漫才師が東京の知識層に受け入れられだす。

1980年に始まった番組『THE MANZAI』は、その全国的な漫才ブームを確固たるものとした。これまでにない豪華なセットと、普段演芸場に集まる中高年層ではなく、若者や女性を客席に座らせたことにより、ファン年齢をグッと下げ、漫才師がアイドル的人気を博するようになる。

そんな中、「B&B」はそれまでの漫才のテンポを16ビートに上げ、漫才に革命を起こしたと言われる。具体的にはボケが猛烈なスピードでしゃべり倒し、相方が最後にツッコむだけというスタイルで、島田紳助率いる「島田紳助・松本竜介」、ビートたけし率いる「ツービート」にも受け継がれた。

しかし、漫才ブームは長く続かなかった。1982年、当番組の放送終了とともに、漫才ブームは終焉を迎える。

【ポイント】
中高年層のための演芸だった漫才は、伝説的なテレビ番組によって若者にも受け入れられ、全国的なブームになった。
・大阪では「しゃべくり漫才」、東京では「ぼやき漫才」がそのルーツにあるように、東西の違いは「漫才のテンポ」である。


3.漫才の革命、そして2度目の漫才ブームへ

『THE MANZAI』の終了に加え、漫才師の数に対し漫才番組が増えすぎたことや、芸人らに漫才ではなくフリートークやコントをさせた方が面白いと視聴者に感じさせてしまったことが原因で、漫才は冬の時代を迎える。

長きにわたってお笑い界を牽引し、今でも最前線で活躍する「ダウンタウン」はそんな時代に生まれた。彼らは1982年、大阪に作られた芸人養成所「吉本総合芸能学院(通称:NSC)」の1期生であり、「師匠から継承するもの」というそれまでの漫才師の常識をぶち壊し、門戸は圧倒的に広がった。

初期のダウンタウンの漫才は、ボソボソしゃべる芸風のためすぐには人気が出なかった。ただ、テンポを速めてボケの数で勝負する漫才が主流だった時代に、テンポを落としてあえてタイミングをズラしたところに、予想外のボケを放り込むというスタイルが若者に受け、「漫才界の革命児」として関西を中心に大ブレイクした。

とは言え、1990年代後半に至るまで約20年間、演芸場やテレビで地道に漫才をしていたのはベテランの漫才師が中心で、漫才は長らく冬の時代だった。その雪解けを迎えたのが1999年に放送を開始した『爆笑オンエアバトル』であり、コントだけ漫才だけではなく、ネタを自由に披露できたことにより、漫才は少しずつ復権し始める。

1990年代を代表する『ボキャブラ天国』や、2000年代を代表する『エンタの神様』などの番組のブームもあり、全国的に若手芸人が急増した。そして、かつての漫才ブームを完全に回帰させたのが、2001年にスタートした『M-1グランプリ』である。

【ポイント】
・NSCの出現により、漫才は「家業」から「株式会社」化した。
・ダウンタウンの革命的な漫才スタイルは、後に出てくる数多の漫才師へ、多大なる影響を与えた。
・漫才やコントといった形式にこだわらない、フリースタイルのネタ番組が、若者を中心に漫才ブームを再来させた。


4.『M-1グランプリ』が漫才に与えた影響

島田紳助が漫才文化の低迷を危惧し立ち上げたそのコンテストは、当初結成10年以内の若手(現在は15年)を対象に、「単純におもろいやつ」を決めようという大会だった。コンセプトこそシンプルだが、M-1は当時流行っていた全てのネタ番組の中でも、ダントツに尖った内容の番組だった。

【M-1グランプリの特徴】
優勝者に贈呈される1,000万円という賞金は、今でこそ当たり前の光景だが、当時のお笑いコンテストの賞金としては破格の金額だった。
・それまで演芸場などで披露される漫才の尺は10分〜20分程度が普通だったが、M-1はその競技性を高めるため全組のネタを4分に統一した。
・審査員にお笑い芸人及び落語家以外のタレントは起用しなかった

そういった「ガチ」のコンセプトで作られた番組だからこそ、現在にいたるまで、M-1には実力者がきちんと評価される土台がある。また、関西的なボケツッコミとは違う脱力漫才の「おぎやはぎ」が、優勝こそしていないが、新しい注目の存在として大ブレイクしたように、実力のある芸人にとっては、一晩でその存在を世間に知らしめるチャンスの番組となった。

M-1が漫才界に与えた影響を語る上で外せないコンビがいる。2002年の第2回大会から2010年の第10回大会で優勝するまで、9年連続で決勝戦に進出した「笑い飯」は、「ダブルボケ(ツッコミを捨てどちらもボケ続ける)」というスタイルで漫才のスタイルを革新した。中でも2009年第9回大会で披露したネタ「鳥人」は、「漫才に革命を起こしたネタ」とも言われている。(このネタは是非見て欲しい)

笑い飯の他にも、M-1によって世に出た新しい漫才のスタイルは以下のものが挙げられる。

・ボケてるのかツッコんでいるのかを分からせない「イリュージョン漫才」の「POISON GIRL BAND
・ツッコミがズレていることをボケにする「ズレ漫才」の「オードリー
・ボケに対しツッコまずノリ続ける「大喜利漫才」の「ハライチ
・ボケに対しツッコまずに優しく返す「ノリツッコまない漫才」の「ぺこぱ

笑い飯を除くどのコンビも優勝こそしていないものの、M-1の歴史、引いては漫才の歴史に大きな爪痕を残した。裏を返せば、笑い飯でも優勝するまで9年かかったように、新しい漫才のスタイルを確立したとしても、正統派を倒すのは難しいことが分かる。それほど「ツッコミとボケのしゃべくり漫才」はお笑いの方程式として完璧なスタイルの一つなのだろう。

一方、漫才が競技化し、技術的にも先鋭化していくなか、いわゆるベタ(ありきたり)で分かりやすく、キャラクターがはっきりした漫才も評価されていく。2人揃って若ハゲという容姿をネタにした「トレンディエンジェル」や、全身真っ赤な衣装で金髪のカズレーサーと130kgの安藤なつによる「メイプル超合金」などのコンビが、正統派漫才師とガチンコで競うのもM-1の大きな見どころである。

【ポイント】
・M-1は、漫才の尺、審査員、優勝賞金に至るまで、漫才師同士を競わせることに特化した番組だった。
・競争の中で様々な新しい漫才スタイルが出てきたが、結局優勝は正統派漫才師が多かった。




以上、「漫才」の創成から現在までの歴史を振り返ってきた。

長くなってしまったが、これでも大分掻い摘んだ。今回は漫才の「スタイル」に注目して歴史を振り返ったが、漫才の「構造」まで分析すると、M-1の決勝戦に出るくらいの漫才師だと全組違う漫才をしていると言える。それくらい漫才は細部まで多様化しており、簡単に語り切れないくらい奥深い。

漫才のスタイルは、社会や地域性と深く関わりを持ちながら、その型を変化させてきた。B&B、ダウンタウンといった稀代の漫才師たちにより、時に大きく流れを変えられてきたものの、その変化は漸進的(ゆっくり、徐々に)だった。

そんな時代の狭間に突如現れた『M-1グランプリ』という番組は、芸人をガチンコの舞台で競い合うという、これまでになかったエンタメを生み出した。その競争の中、自然と古い漫才は淘汰され、新しい漫才のスタイルが加速度的に増えていく流れを作った


ここまで長い間お付き合いいただいた読者の方は、平安時代の「萬歳」が、現在の「漫才」の形になるまで、そのスタイルを徐々に変えてきたものの、根幹の部分は変わらず受け継がれてきていることがお分かりだろう。

スーツを着たおっさん」が「2人」で「マイクの前で話す

冒頭で言った、僕の「漫才」の定義は当たらずとも遠からずといったところだろうか。スーツはともかく、「2人」で「マイクの前で話す」ということは、ツッコミとボケの役割がごちゃ混ぜになろうとも(時にはボケだけになろうとも)、平安時代から続く漫才の定義である。






2020年M-1グランプリ第16回大会にて
漫才の歴史と定義は覆されることになる


来週はM-1編最終回として「M-1グランプリ2021の見どころ」を書こうと思います。

noteのお題はコメントかこちらまでお願いします。


本記事は「BRUTUS 2016年 11/15 号 [漫才ブルータス]」を参考にしました。
本文の内容はあくまでも個人の解釈と感想です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?