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【雑文】 リハビリ文章

技巧は枯渇するものではない。
アイデアもまた枯渇しない。
書き手にとって唯一コントロール可能な資質は「モチベーション」である。この三カ月働きすぎたから、モチベーションの在庫が切れたとか、そういうふうに考えるのは失敗だ。
むしろ、モチベーションは、三カ月書かないことで枯渇する。
「コラム道」 小田嶋隆氏著 より要約抜粋

牡蠣がシーズンインしましたね。牡蠣、食べましたか。わたしは袋のやつを食べたんですけどね、どうも味が薄くて。あれ? 牡蠣ってこんな味だっけと訝しくなってしまってね。ビニール袋入りですから、目利きってほどのものではないんですけど。牡蠣ミユキとしてはショックです。

ご無沙汰しております。クニトミユキです。

小田嶋隆さんの本に頭を殴られたので、noteを書きます。以前のnote投稿は9月23日でした。ものすごく時間が経っていると思いましたが、ほんの2カ月足らずでした。「ご無沙汰」なんておこがましいです。

読書っていいですね。「やらなきゃ」と思わせてくれる文章はわくわくします。「私にも何かできるかも」の「かも」なものはヨノナカにあふれていますが、実際の行動に結びつく文章はそんなにたくさんあるものではないですね。いつか、いつか書けるでしょうか。そんな文章。

2019年にインタビューした方を思い出しました。
ものすごく博識な読書家さんで「知識と教養は、自分を『必要な場所』へ連れて行ってくれる」とおっしゃっていました。世界を転々としながら育ち、近年はアメリカ暮らし。日本へ招かれて私立保育園設立&運営に奔走し、その経緯を論文にしてまた外国の大学で研究をしたいと生き生きとした表情で語っていました。話を聞きながら、圧倒的な知識の泉に溺れてしまいそうでした。彼女はある問題の解決策のために、数十もの事例を考えます。AがダメならB、C、D…そしてAの長所をDに繋いで新たなEを作り出す。彼女には壮大な想像力も備わっていました。

子どもたちと話していると、「大人が発する言葉の影響力」がどんなに怖いものか思い知らされます。私が小学~高校生だった昭和から平成初期とは、明らかに社会の価値観が違う。「男のくせに・女のくせに」という言葉は、彼らの尊厳を傷つけるものでしかありません。ともすると子どもたちに、心ない言葉をかけてしまいがちです。先日は家庭内にて、揶揄を込めて「なにそれ、YouTuberみたい」と言ってしまい、娘に「そういう言い方はよくない」と窘められました。

自分の発する言葉が、子どもたちの思想や哲学を傷つけないかと怖くなるのです。人間そのもの、ジェンダーに関する事柄は、十把一絡げにするわけにいきません。様々なケースを見聞きするうちに、単純に「男が嫌だから女に」「女が嫌だから男に」と性別を変えれば済む話ではないのだと知りました。単純な話ではないと少し想像力を働かせればわかるはずなのに、当事者である人から説明されるまで考えが及ばなかったのです。そこに足りないのは、想像力と知識でした。

つい先日、「想像力にも知識と教養が必要ですよね」と信頼を置いている仕事仲間がミーティングでつぶやきました。事象を発展ある想像へ繋げるには、独りよがりの空想だけでは限界があります。ものごとを柔らかく捉えて広義に解釈して想像するには、深く広い知識と教養が必要なのです。同じ事象なのに、炎上になってしまうのとそうではないやさしい言葉があるのは、そのせいなのかもしれません。

多感な時期の子どもたちと接する機会が増え、彼らに、「自分で考える余白のある言葉」をかけるにはどうしたらよいだろうと考えるようになりました。大人から子どもへの言葉で何より怖いのは、彼らの思考を停止させてしまうこと。思考の停止は、未来を奪います。そうさせないために、彼らの想像力が広がる言葉を使いたい。そうさせないために、美しい言葉を使いたい。そうさせないために、奥行きのある言葉で伝えたい。

そのために、茨の道かもしれない進路を決めました。ちょっと…いえ、泥くさく勉強をしてきます。コピペはもうたくさんです。言葉に関する知識と教養は、果たして私を然るべき場所へ連れて行ってくれるでしょうか。

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