見出し画像

【出会い】桜の木の下

 月宮にとって『ピアノ』というものは無くてはならない物だった。感情を感じられず、上手く伝えられない彼にとって、人とコミュニケーションを取るための唯一の「架け橋」だったからだ。
  幼い頃から家庭に恵まれず、心を殺して生きてきた。
『あの子、ずっと無表情よねぇ』
『旦那さんが凶暴だと聞いたわ……可哀想に』
可哀想--自分はそうなりたくないという時に使われる言葉だ。月宮はその言葉が嫌いだった。
『月宮君って不気味じゃない?』
『喋らないし笑いも泣きもしない。お人形さんみたいだよね』
不気味--人を揶揄うために使って欲しくはない言葉だ。幼い頃から表情が乏しく笑い方も知らない。泣き方も知らない。
  それゆえか、彼の口から出る言葉は『愛なんて知らない』だった。家族愛というものは月宮家に存在しなかったと言っても過言ではなかったから。
  そんな彼を変えてくれる出会いは、気乗りしないまま登校した高校生活初日に訪れることとなる--



 始業式開始を告げるチャイムが響くころ、漆黒のボブヘアーを一つに結った少年日谷和紗(ひたに かずさ)は外にいた。始業式を欠席することは彼の中で恒例行事となっていた。「さぼる」という行為にも相当するが当の本人は気にする素振りも見せず呑気に欠伸を噛み殺した。グラウンドの砂をざりざりと踏み、お気に入りの場所へと向かっていった。
「あれ……」
桜の木の下が日谷の特等席だったのだが、運悪く先客がいたようだ。いつもは誰一人来ることは無かったこの場所。邪魔だなぁと思いながらも空いているスペースに腰を下ろし背中を預けた。しかし、視界の隅に映る白い猫っ毛が気になってしまう。
「柔らかそうな毛だな……」
そう呟くと「もう気にしない」と決意し、上へ視線を向ける――桜の花びら隙間から澄んだ青空が見えた。心地よい春の陽気に包まれ微睡みの世界へと意識を手放した。
 どれだけの時間が経っただろうか。視線を感じた日谷はゆっくりと目を開いた。
「あ……、起きた」
優しい声色の少年は蒼い双眸を丸くしていた。凝視されたことに気がついた日谷は後ずさった。近距離にある少年の顔に思わず「顔近いな」と言ってしまった。少年の醸し出す独特の雰囲気にごくりと息を呑む。
「綺麗なひと……」
寝起き数分で放心状態の日谷は返す言葉が見つからなかった。
「名前……知りたいです」
絵画に出てきそうな風貌を持つ少年は身を乗り出した。
「日谷和紗」
名前を口にすると「日谷くん……」と目を輝かせていた。きらきらとしたエフェクトをつけたくなるような笑顔に不覚にも、どきっとしてしまった。平静を取り繕うために咳払いをして「お前は?」と聞いた。
「あ、……月宮愛(つきみや ちか)です」
名前が分かると何とも言い難い空気がわずかに緩んだ気がした。
「俺のこと…、、怖くないの」
月宮の質問の意味が分からなかった。
「は?」
どういうことだ、と聞くと「俺のことを不気味がるんだ」と俯いてしまった。
「俺は怖いなんて思わねェけど」
何が怖いんだろうと一瞬考え込みそうになったが雑念を振り払い返事をした。
「まぁ、仲良くしようぜ。せっかく会ったんだから」
堅苦しいのも面倒だから下の名前で呼んでくれよと日谷は歯を見せた。爽やかな笑顔の日谷と独特な雰囲気の月宮との異色の学校生活が始まった。
 話していくうちに分かったことはクラスが別であること、思考や性格が正反対であることなど挙げていくとキリがなかった。
「別のクラスか」
残念そうに肩を落とした日谷。
「休み時間、月宮のクラスに行っていいか」
「あ、うん。待ってるね」
新年度の初日は出会いの季節に相応しいものだった。
 翌日。高校三年生に進級して初の授業があった。オリエンテーションや自己紹介などで五十分間という時間はあっという間に過ぎた。六限の授業は選択教科だ。月宮と日谷は同じ音楽を選んでいた。
「お、愛じゃん」
移動する途中で、月宮を見つけ声をかけた。
「和紗くん」
教科書やファイルを胸の前でぎゅっと抱きしめながら日谷に駆け寄った。
「教科何選んだんだ?」
日谷は音楽室に行くために一番近い階段を上がりながら訊いた。
「音楽にしたよ」
「お前の手、超綺麗だもんなァ。その指先だとピアノ経験者か」
ちょっと手、見せてと片手を出すと少し躊躇いがちに白く細い手が乗せられた。
「きっと長い間やってたんだろうな」
まじまじと手を見ながらそう言った日谷。
「小さい時から習ってたんだ」
懐かしむように目を閉じた月宮。
「今度愛の弾くところが見てェ」
「ふふっ、授業で見られるよ」
小さく笑む月宮に「二人の時に見てェの」と付け足した。
「そこまで上手くはないよ」
「心がこもっているなら上手いとか下手とか関係ないと思う」
持論を展開する日谷に感心していた。
「和紗くんは、すごいよ」
これ以外に言葉が見つからないやと首を横に振った月宮。
 教室に入ると昨年までのメンバーや知らない顔の人間が入り混ざっていた。好きな席に座れと黒板に書いてあったのを見て二人は列の窓際の一番後ろの席に座った。毎年言われることが変わらないオリエンテーションを終え、余った時間は自由に過ごしても良いという。
「俺、ピアノ弾こうかな」
存在感のあるグランドピアノをじっと見つめ思い立ったように立ち上がった。教師は黒板の手前で椅子に深く腰をかけている。
「先生。ピアノ使ってもいいですか」
何かが起きてからでは遅いので前もって許可を取っておく。
「ああ。終了十分前には片付けなさい」
「ありがとうございます、分かりました。」
蓋を開け使える状態にし丸椅子に座り目を閉じた。日田にも幼い頃から習っていたため大体の曲は体で覚えている。曲名を思い浮かべると手が鍵盤を辿ってくれる。目を閉じるのは「音」にのみ集中したいからだ。男性らしい骨ばった手が、薄汚れた鍵盤に触れる。弾き始めはソフトタッチで奏でられるメロディーで、心に安らぎを与えてくれるほど優しいものだった。
雑談で盛り上がりをみせていた他の生徒たちも突然始まった演奏に聴き入っていく。普段何をせずとも過ごしているだけで回りに人が集まる人柄の日谷に好感を抱くのにはそう時間はかからなかった。一番後ろの席で目を閉じ、耳を澄ます月宮。
演奏が止むと同時に席を立ち上がった。
「すごく、素敵だった」
細められたコバルトブルーの瞳は日谷に向けられている。
「ありがとう。愛も弾くのか」
「うん……。弾かせてもらおうかな」
演奏者を交代し月宮が椅子に座った。腕を捲るのは昔からの癖のようなもので、現在は週間となっているようだ。五線譜に散りばめられた音符が旋律となって鼓膜を揺らし、心をも震わせるものになる。ひどく悲しげな旋律は月宮の過去を彷彿させるようだった。表に出すことの無い痛みや叫び、奥にしまっていた本音などが曲として人へ伝播していく。

 --心が強い力で絞られるように、強い力で押し潰されるように、すごく痛かった。先端が鋭く尖っている刃物が心に刺さる。そして心の一番柔らかい部分を抉るんだ。俺はこの苦しさを表す言葉が分からない。代わりにメロディーに乗せて伝えるから……。

 廊下側の最前列で顔を歪め座っていた少年草津湊(くさづ みなと)はこの曲の意味を理解した。目の縁に溜まる涙は心優しい人間の涙である。ぐずっ、と鼻をすすり草津は天井を仰ぎ見た。『月宮をどうか救ってあげられる人が現れますように』と。
 物音の一つもしなくなった音楽室に授業終了のチャイムが響く。
「授業終わりだ。片付けた者から戻ってくれ」
教師の声で静寂は消え、活気が戻ってきた。聴いたピアノの感想をくちにして次々と生徒が教室を出て行く。
「月宮」
硬直し動かなくなった月宮を呼ぶのは草津である。栗色のショートヘアにべっこう飴のような色の瞳が特徴の少年だ。
「あ、草津くん……」
ぎこちない笑みで呼び掛けに応じる。
「俺には届いたぞ」
泣いていたのを悟られないように背を向け立ち去っていった。
「あ……」
驚いた表情はすぐに緩み、口元をわずかに曲げ「ありがとう」と返した月宮。
「おう。……あと日谷、これからもそいつの隣にいてやってくれ」
妙な台詞を残し立ち去る草津。この言葉の意味を理解するのにはもうしばらくかかりそうだ――

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?