ジャック・ザ・リッパー from 2019
「また、あの忌まわしい『切り裂きジャック』が現れたそうじゃない」
噂話をする貴婦人らを乗せ、煉瓦作りの建物に囲まれた大通りを馬車が走る。
「生きたまま身体を切り刻み、はらわたを奪い逃げるらしいわ。ああ、何ておぞましい!」
窓や煙突から排出される煙、立ち並ぶガス灯がかろうじて薄暗い道を照らす。
ここは霧と蒸気に昏む街。1888年のロンドン────
◆◆◆
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
大通りを外れた路地。その地下。
恰幅のいい男が、全裸でベッドに縛りつけられている。
男は目だけをギョロギョロと動かし、必死で周囲の様子を確認する。
地下だというのに眩しいほどに明るい部屋。ベッドの枕元に置かれた机には、鋏、鋸、針など、見るだけで痛みを感じるような器具が几帳面に並べられている。
傍らに立つのは、長身の黒衣の男……切り裂きジャック!
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
死にたくない。
俺は、死ぬわけにはいかない。
俺には、やらねばならないことがある!
荒い息を吐く。心臓が早鐘を打つ。酸欠でめまいがする。
そう、数ヶ月前から続くこの息苦しさ。激しい胸の痛み。
遠からず、俺は死ぬ。そう確信じみた予感があった。
「心筋梗塞からくる心不全、肺水腫です。大伏在静脈を移植し、大動脈とのバイパスをします。難しい手術ですが、全力を尽くします」
切り裂きジャックが、男に言う。
「必ず、あなたを助けます」
その声色は、今まで聞いたどんな言葉よりも優しい響きだった。
そう、俺は死ぬわけにはいかない。だから最後の望みを、この正体不明の男に賭けたのだ。
この男なら、俺を助けることが出来るかもしれない。藁にも縋る思いだ。
「では、執刀開始します」
男は、この時代ではまだ実用化どころか、存在すら知られていない、麻酔薬を注射し始める。
黒衣の男は、腕に壊れた時計をつけている。
文字盤には『2019/10/10』と刻まれていた。
【続く】
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