薩摩の黒田清隆伯爵と講談 2
「正直車夫」
下谷御徒町2丁目19番地の裏長屋に、小林庄吉という人力車夫がいた。柏木という帳場に所属の車夫で、上野山下周辺を流していた。家には老いた両親と女房子供二人が口を開けて待っているが、たいした稼ぎもなく釜の蓋が開かないこともしばしばで、ろくに粥も啜れない中、それでも夫婦は両親に忠孝を尽くした。
ある晩寝酒にいっぱいやりたいと言う父親のために、商売道具の股引を質に入れ30銭こしらえて、それで酒を買って帰った。あくる日から股引なしで車を引かなきゃならないが、それは「空脛」と言って御法度。つまりは今で言えば道路交通法違反になる。そこで女房が一計を案じ、腰から足首まで墨を塗って股引を履いてるように見せかけた。夜ならともかく昼日中にそんな誤魔化しが通用するわけもなく、巡査に見つかってしまう。「おいこら貴様ん」という巡査に平身低頭で訳を話すと、巡査は小吉の孝心に大いに感動し
「これをおぬしにやれば、おいどん一文も中。ばってん明後日になれば、おいどんは俸給にありつくたい。おぬしは早く股引は質から出して、この寒中に風邪ひかんこつするが‘よかばい、励みんしゃい。」
薩摩弁丸出しで五十銭を恵んでくれた。
明治5年師走のある晩、小吉はお客もなく空車を引いて流していたところ、和泉橋の南詰にある川升屋と言う鰻屋でいっぱいやっていた黒田清隆伯爵が、店から飛び出し、偶然出くわした小吉の車に今すぐ乗せろと怒鳴るように命じた。頼んでいた帳場車が来ないので癇癪を起こす寸前だったのだ。下手すりゃまた人死にが出るところだ。
三田のお屋敷まで黒田伯を乗せた帰り道、庄吉は蹴込に手提げ鞄を忘れているのを見つけ、お屋敷にとって返して届けると、折しも鞄がないと黒田伯は暴れている最中であった。下手すりゃまた人死にが出るところだ。
鞄の中には非常に重要な書類が入っており、黒田伯大いに感謝し百円という過分も程がある大金を礼金として差し出した。しかし庄吉は固く辞して受け取らない。妙な奴だ金が要らんのかと訝しがった黒田伯、めんどくさくなり、では後日と車夫の所番地を訊き書き留めて、その晩は庄吉を返した。
早速翌日書生を伴って庄吉を尋ねると、夫婦喧嘩の真っ最中だった。殿様がお礼に大金を下さると言うのに断る馬鹿がどこにいると女房激昂し、庄吉は庄吉で、べらぼうめこちとら江戸っ子でい、当たり前のことをして百円貰おうなんてケチな了見はねえんだと啖呵を切っている。黒田伯このやり取りを聞いて大いに嬉しくなり、「それじゃあ金をやるのをやめるが、何かせねばおいどんの気持ちが収まらんなら、少々のことをさせてくれ。」と庄吉を説き伏せた。
黒田伯が庄吉にしたのは少々どころじゃなかった。須田町停留所に隣接する神田連雀町18番地に広い地所を確保し、そこへ人力車十数台に十四人の引き手をつけて、庄吉を人力車帳場の親方にしてしまったのである。
※※※
書いててあほらしくなった。これが実話と喧伝されたと言うから恐れ入る。この話、文七元結にそっくりである。前段の巡査が長兵衛、後段の庄吉夫婦は長兵衛夫婦だ。文七元結では近江屋卯兵衛が長兵衛を尋ねると夫婦喧嘩の真っ最中、正直車夫では黒田伯が庄吉を尋ねると夫婦喧嘩の真っ最中だ。これは黒田伯が仕組んだプロパガンダだろう。薩摩の巡査は実は人情に篤く、黒田伯は温情主義です、江戸前の気風も人情の機微も理解してます、と言うわけだ。
黒田が庄吉の所番地を訊き忘れ、日本橋の大村という蕎麦屋に車夫数十人を集め、こういう風体の車夫を知らんかと天婦羅蕎麦を振る舞ったり、庄吉夫婦が神棚に「お巡りさん」と書いた紙を祀って朝晩報恩感謝のお祈りをしたとか、さらにアホらしいエピソードのバージョンもいろいろあったようだが、大筋の話は、現代に細々と生き残る講談という芸のネタとしてこれまた細々生き残っている。
黒田の妻殺しも汚職もいつしか忘れられ、この「正直車夫」のおかげで温情ある明治の政治家という虚像が一部で語り継がれてきたのだから、このプロパガンダは成功したとみるべきだろうが、調べてみてさらに驚くべきことが分かった。講談に実在の黒田伯が登場しただけじゃなく、小林庄吉もまた実在したのだ。実際に神田連雀町18番地に小林組という人力車の帳場が当時実在した。
小林組は人力車の帳場ばかりではなく、人力荷車などの製造所を新宿と庄吉が以前所属した柏木の二箇所に設けて手を広げ、陸軍省の御用達となって大いに繁盛し、小林庄吉は明治27年の日清戦争開戦の際、かつての黒田伯の報恩に軍需品を輸送する頑丈な荷車数百台を献納している。さらにのちの日韓併合の時には長年の功績により顕彰までされているのだ。
この事実を以ってして「正直車夫」も実話だろうと推測するのは早計だ。驚くべき、と言ったのは実在する小林庄吉と小林組をモデルにしたという念の入れ方にだ。陸軍は薩摩閥が牛耳っていた。その陸軍と密接な関係のある民間企業など、薩摩の親玉がちと協力してくれんかと言えば二つ返事だったろうと俺は思う。実在の人物をフィクションに登場させる梶原一騎的手法の先駆けとでも言おうか。
円朝の文七元結に感じ入った黒田は、自分が登場するこの話を落語の人情噺として噺家に語らせたかったのかもしれない。だがこんな薩摩の政治的宣伝を騙る噺家はおらず、講釈師が見て来たような嘘を語るのみである。
黒田清隆三部作これにてお終いでございます。どっと祓い。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?