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薩摩の俗悪芋野郎黒田清隆と講談 1

立川談志と高田文夫の対談で江戸っ子の定義という話になり、高田が「やせがまん」と言ったのに対し談自論を披露した。

「俺はね、生まれはどこでもいいけど、ご維新のときにどっちに味方するかってこと。」

さすがは家元だ、スタイルではなく思想的に江戸落語を継承してると思う次第であるが、夏目漱石ならこう忠告したかもしれない。

「君も江戸っ子の端くれなら、ご維新じゃなく瓦解と云い給え」

年号が明治に改まったときに、高座で噺家がこんなことを言い、巷間で流行ったという。明治をひっくり返してみねえ薩長じゃ江戸はとても治る明(めえ)。この反骨的佐幕気分が江戸っ子の代弁者たる江戸落語の気風だ。

江戸から明治への転換期に、当時の噺家たちはそれぞれの身の処し方をしたが、佐幕という芯が一本通っていたように思う。四代目三笑亭可楽は、父親が幕臣だったせいか一際強烈な抵抗主義者で、薩長に一泡吹かしてやろうと、会津藩の重臣と謀って市内各所に爆弾を仕掛ける計画を立てた。つまりテロである。通称爆弾可楽といわれた。また、初代三遊亭遊三は御家人でありながら芸事好きが高じて寄せ芸人になったものの、上野戦争の際には彰義隊に参加して薩長と戦っている。

漱石は、江戸落語の正統的後継者として三代目柳家小さんを「三四郎」の中で激賞してる一方、三遊亭園遊については少々批判的に書いている。瓦解後、急激に地方からの流入者が増え、それら「田舎者」が寄席で喜ぶのは、古参のような渋い語りではなく、馬鹿馬鹿しい滑稽話や珍芸である。三遊亭園遊はステテコ踊りなる珍芸で田舎者を喜ばす芸人の急先鋒であった。

また園遊は、江戸時代の噺を明治風に改作して、寄席に来る新しいお客に迎合するかのような動きを見せたが、その改作の一つが前にこのnoteで紹介した「野ざらし」だ。その記事の繰り返しになるが、爆笑滑稽噺に登場する無名の釣り好きの老人に、立派な武士の名と元彰義隊という経歴を与えた園遊に、まるで質素な着物の裏地に派手な拵えをするような強かさと反骨性があったのだ。

黒田清隆の前で「文七元結」を演った三遊亭円朝は、明治の御代に自作の噺をバンバン書いて、当時「新作バナシ」とカテゴライズされたが、書くものは全て江戸の噺ばっかりだった。円朝は捕縛された爆弾可楽の弟子の面倒を引き受けるなど佐幕派噺家の後方支援にも積極的だった。

江戸の昔、落語は単なる話芸であったが、明治になっても江戸っ子の気風を活写する落語は、自然と佐幕の芸能となった。いや噺家たちの意識に佐幕があったのだろう。その意識は芸と共に継承され現在に至る。

黒田清隆が円朝の「文七元結」を聴いて数年ののち、高座に奇妙な講談がかけられるようになった。題して「正直車夫」。そのあらすじは驚くべきものだった。今回は前置きでお茶を濁しましたが、いよいよ明日黒田清隆三部作大団円でございます。

続く

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