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あいまいな日本のゆる学徒 :「ゆる文学ラジオ」の補足説明

あいまいで〜す!(大江健三郎)


以下の記事は、筆者の出演した『ゆる学徒ハウス』二次選考動画「ゆる文学ラジオ」に関する補足説明となります。

筆者の拙い喋りと「とほまち」に対する漱石枕流、もとい申し開きは、別の記事にまとめました。

(※9/27追記)
YouTubeコメントでのご指摘や、興味深い意見に対して返信をしました。


動画内の説明の補足Ⅰ

アリストテレス『詩学』~二葉亭四迷「浮雲」の辺り

開幕うんちくエウレーカクイズ

堀元さんが言及していた悲劇/喜劇の定義は、アリストテレス『詩学』序盤の「第2章」より。観客より「すぐれた」人の行為を再現するのが悲劇、「劣った」人の行為を再現するのが喜劇だと定義されています。

『詩学』はいくつか翻訳が出ていますが、筆者は最新版の光文社古典文庫(2019)を参照しました。

なお、古代に小説が存在しなかったと言えば、そんなことはありません。ローマ期にはペトロニウス『サテュリコン』やアプレイウス『変身物語(黄金のロバ)』といった大著が確認されています。

ただし、これらの作品は、どちらかと言えば著者が趣味的に書いた側面が強く、公的に認められていたわけではなかったようです。小説が芸術の傍流に置かれており、近代になるまでその価値が見出されていなかったのは間違いないでしょう。


「もしかして坪内逍遥ですか?」

動画内で触れたのは、坪内逍遥「小説神髄」の中でもっとも有名な一節《小説の主脳は人情なり。世態風俗これに次ぐ》。

逍遥は江戸時代の物語(戯作)文芸を否定し、新しい表現形式であった小説(novel)を称賛しました。人間の内面を掘り下げることのできる後者の可能性を、高く評価したためです。

ただし逍遥自身は、己の先進的な文学理論を実作に活かすことができませんでした。日本語の近代文学の完成は、逍遥を批判的に継承した二葉亭四迷の登場を待つ必要がありました。

ちなみに逍遥は、このあと小説に見切りをつけて演劇の方面に進むのですが、こちらの道も挫折しています。めざましい才能と先駆的な理論を持ちながらも、それを具体化できない逍遥。津野梅太郎はそんな彼のことを、滑稽な巨人と茶化しました。(津野梅太郎『滑稽な巨人』)


言文一致体を完成させた『浮雲』

動画内で話した通り、二葉亭四迷『浮雲』は最初と最後で文体がかなり変わっています。書き始めは古典のテイストが残っていましたが、執筆をつづけるうちに垢ぬけていき、ラスト付近では言文一致体が出来上がります。日本語の「近代文学」が産声をあげた瞬間でした。

ちなみに、『浮雲』の物語をかいつまんで言えば、自意識過剰な青年の挫折と片思いNTR(寝取られ)です。

主人公の青年・内海は要領の悪さから仕事先をクビになる一方、社交性の高いライバルは出世し、恋心を寄せていた女性の心も奪い去ってしまいます。内海はさまざまな鬱屈を抱えながら、部屋に引き籠ってしまうのでした。

『浮雲』の評価については、堀啓子『日本近代文学入門 12人の文豪と名作の真実』(2019、中公新書)を念頭に置きながら話しています。

追いうんちくとしては、二葉亭四迷はスパイだった(ロシア語に堪能だったため日露戦争時に間諜に選ばれた)という話もあります。


小説の端緒はダンテ『神曲』?

14世紀イタリアで成立した叙事詩にして、今なお世界文学の最高峰に数えられる傑作。著者ダンテ自身が語り手となって、地獄・煉獄・天国を巡り歩き、死者や怪物と対話をするという筋書きです。

『神曲』は三韻句法から成り立つ韻文であり、文章形式の点から見れば、小説の定義から外れるのは明らかです。そのため、動画内では説明なしで流してしまいました。

ですが、『神曲』は日常会話で用いる口語(トスカナ語)で編まれた初の文学作品という側面があります。伝統と格式のある古語(ラテン語)ではなく、話者にとって使い馴染みのある今の言葉を選んだ。この点において、小説の走りだと論を組み立てることはできるでしょう。

また『神曲』は、ルネサンス期以降本格化する人間主義(ユマニスム)の嚆矢としても読み解けます。地獄や煉獄で捌かれる人々があまりに人間的であるため、人間存在の探究に心血を注いだ近代文学の原点として数えられるのです。

たとえば大江健三郎『読む人間』(集英社、2007)では、地獄で罰を受けるオデュッセウスの人間主義(地獄篇第26歌)から、近代小説の萌芽が見出せると提起されています。

一応、筆者による後述の主張に従うのなら、『神曲』は小説の定義からは外れます。が、異論を挟む余地は大いにあると思います。


小説の端緒はボッカチオ『デカメロン(十日物語)』?

『神曲』に続いて登場した、イタリア文学の重要な傑作。『十日物語』という邦題の通り、十人の男女が十日間かけて滑稽譚を話していくという体裁を取っています。感染症(ペスト)が舞台背景にあることから、近年になってカミュ『ペスト』ともども注目を集めた古典でもあります。

動画内で話した『神曲』のパロディの場面は、「第2日目第5話」。

cf. 「『神曲』のパロディーとしての『デカメロン』第2日 第5話」(林和宏、2016)http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/88064/1/acs093003_ful.pdf

こちらの作品が、散文芸術の起点の一つであるのは間違いありません。そのため堀元さんからの「小説の端緒といえばボッカチオですか?」という問いはクリティカルです。

広義の小説として『デカメロン』が認められるのは間違いない。先に述べたように、ローマ期から有名な小説はあるし、ほかに有名な作品は『ダフニスとクロエー』がある。近世では寓話小説『薔薇物語』も有名だ。あとはよく言われる話だが、『源氏物語』を小説と捉えることだって可能だろう.…

と話そうか迷ったのですが、議論が煩雑になりそうだったので切り捨てました。一応、筆者のこの後の主張に従うのなら、『デカメロン』も小説の定義からは外れます。が、(以下同文)。



動画内の説明の補足Ⅱ

高橋源一郎の小説の辺り

『日本文壇史』と『日本文学盛衰史』

動画内では説明を省きましたが、高橋源一郎『日本文学盛衰史』は、伊藤整『日本文壇史』のパロディとして捉えられます。伊藤整の方は、高橋のようにふざけ倒すのではなく、あくまでも真面目一辺倒に、明治期の文豪の生活を追っていました。

とはいえ、『日本文壇史』も決して堅苦しいわけではありません。論文というよりは、才能豊かな文人たちが交差する群像劇として純粋に楽しむことができます。著名な作家も幼少時代から登場しており、第1巻に少しだけ登場する塩原金之助という少年が、後に夏目漱石へと大成していく成長譚も見どころでしょう。

ただ、講談社文芸文庫で全18巻(伊藤の死後、瀬沼茂樹が引き継いで執筆したものも含めると全24巻)という超大作ぶりに、たじろいでしまうこと請け合いの書籍群でもあります。


石川啄木=生活破綻者といううんちくはクリシェ?

自分の観測するネット上だと、よく「石川啄木はクズ」という揶揄をよく見かけます。ですので、「石川啄木の私生活はだらしなかった」といううんちくは、クリシェだとばかり思って喋っていました。

ところが堀元さんはご存じでなかったので、もしかしたらクリシェではないのかもしれません。うんちくコモンセンスが問われるところですが、実際のところどうなんでしょう。

近年だと漫画『ゴールデンカムイ』で女性にだらしない石川啄木が登場していたので、クリシェに近づきつつあるのは間違いないと思われますが…。


メタジャンル性こそが小説の本質である

動画内での筆者が展開した主張の核心部分。

主な参考文献は、大江健三郎『小説の方法』(1978、岩波現代選書)、シクロフスキー『散文の理論』(せりか書房、1971)。こちらのロシアン・フォルマリズムに関する記述を拡大解釈し、この主張を行っています。理論の概要については、「Ⅲ」にて紹介します。

ただ、収録の現場では勢いで押し切りましたが、これは過言だと言わざるを得ません。形式だけではなく内容も重視するのが、一般的な小説観だと言えるでしょう。フォルマリズムに対する端的な批判としては、テリー・イーグルトンのベストセラー『文学とは何か』(岩波文庫、2014)が参考になります。

また別の角度からの反論材料としては、たとえばジュラール・ジュネット『パランプセスト』(水声社、1995)が思い浮かびます。この浩瀚な冊子では、「あらゆる文学テクストが先行する作品の影響下に置かれていること」が示されています。

メタジャンルこそが小説の本質と言ったけれども、他の文章形式にだってメタジャンルはあるではないか、という批判が可能なのです。

このように反論が予想される危うげな主張ではありますが、一考の余地はあるとは思うので、動画内ではあえて言い切ることにしました。「メタジャンル性を許容する寛容さ、懐の深さこそが、小説の本質である」、ぐらいの主張なら批判も減るでしょうか。

ただアドリブとして咄嗟に出てきた、「小説とはカレーである。どんな具材を入れてもルーを入れればカレー味になるように、どんなテキストを入れ込んでも小説は成立する」という喩えは、我ながら悪くないと思います。



動画内の説明の補足Ⅲ

『ドン・キホーテ』にまつわる話題のあたり

『ドン・キホーテ』(前・後編)

参考文献は、岩根圀和『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽者騒動』(1997、中公新書)、牛島信明『ドン・キホーテ 神に抗う遍歴の騎士』(中公新書、2002)、片倉充造『ドン・キホーテ批評論』(南雲堂フェニックス、2007)。

あと動画内でも推薦した清水義範『ドン・キホーテの末裔』(岩波書店、2007)は、小説ですが『ドン・キホーテ』の重要な部分を押さえられると思います。


ドン・キホーテを絶賛したドストエフスキー

出典は『作家の日記(第5巻)』(小沼文彦訳、ちくま学芸文庫、1998)より。筆者が参照したのは、ドストエフスキーが『ドン・キホーテ』を褒めちぎる次の一節。

ここには人間の精神の最も深く、最も神秘な一面が、人心の透視者である大詩人によって、みごとに剔抉されているのだ。ああ、これは偉大な書であって、今どき書かれているようなものではない。かような書物は、数百年にようやく一冊ずつ人類に贈られるのである。

世界中にこれほど深く力強い作品は存在しない。これは今のところ人類の思想が発した最後的な、最も偉大な言葉であり、およそ人間が表現しうるものの中で、最も苦いアイロニーである。もしこの世の終わりが訪れた時、あの世で人類が「諸君は地上の生をどのように理解し、そこからどのような結論を得たか?」と尋ねられたなら、人類はそっと『ドン・キホーテ』を差し出して「これが私の結論です。私を裁くことが出来ますか?」と答えることが出来るだろう。

大いなる存在に対して、人類が経験した地上での生に対する「答え」として差し出すことのできる作品。この絶賛具合に勝る書評は、なかなか見ることができないでしょう。


『トリストラム・シャンディ』を紹介した夏目漱石

漱石の書評「トリストラム、シャンデー」のなかで登場します(『漱石全集第十三巻』、岩波書店、1995)。著作権が切れた関係で、全文がネットで公開されています。以下のリンク先を参考にしてみてください。
https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/soseki/


大江健三郎はドン・キホーテの影響を受けている

出典は大江自身の記した小説理論書『小説の方法』より。

大江は書籍の中で、文学理論の流派の一つであるロシアン・フォルマリズム(形式主義)を紹介します。文学領域におけるフォルマリズムを要約すると、次のような説明になるでしょうか。

人々は日常生活において、言葉を使うことに慣れすぎている。ゆえに普段は、言葉そのものを意識し、注目する機会がない。ならば文学者の仕事は、言葉を「異化」することにあろう。「異化」、すなわち奇異に見える表現や句法を用いることで、人々の眼をその対象へと見開かせる。それが文学の本懐である。


大江はこの「異化」の概念を拡張して捉え、文学小説は表現や句法だけでなく、物語も「異化」しなければならないと論じます。そして、物語の「異化」とは「手法の露呈化」、すなわちパロディであると結論づけます。

ところで『ドン・キホーテ』は、何層にもわたってメタフィクションとパロディが折り重なっています。そこで大江はこの小説を模範として、1980年代以降の作品を編み出していくのでした。

そして2002年発表の『憂い顔の童子』では、老いた大江自身をモデルにした登場人物がドン・キホーテを演じ、滑稽な事件に巻き込まれることになります。



YouTubeコメントへの返信

面白かったコメントへの返信

>ちなみにボルヘスの短編のなかに、セルバンテスになりきるなどして『ドン・キホーテ』と全く同じ文章を反復しようとする男の話が出てくる

ボルヘスの短編「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」ですね。もしも昔の文豪に完璧になりきった小説家がいたとして、その人が文豪と一字一句違わない文章を書いたのなら、それは盗作なのかオリジナルなのか……。このような思考実験を提供してくれる作品です。


>そういえば「novel」の語源は、新しいという意味のラテン語「novus」に由来するそうです(そもそもnovelにも新しい、奇抜なといった意味がありますが)。 同語源としては初心者を意味するnovice、新星を意味するnova、革新を意味するinnovationなどがあります。

良いうんちく~!(堀元さん風に)
これは知りませんでした。近代文学小説という新しい発明はnovelの語源からして明らかだった、という話をすれば、動画の説得力がさらに増していたかもしれませんね。


>小説の誕生は活版印刷機と識字率の向上が大きいような気がします。 現代だとコンピュータの普及がネットの娯楽性を生んだような感じでしょうか。

メディア形式の問題は、今回の動画では話す機会がなかったですね。その辺りの話は、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』にて詳しく書かれています。


>騎士道文学のレポートで結論をドンキホーテとサンチョパンサの関係はハルヒとキョンの関係と書いたら再提出をくらった

面白い着眼点だと思います。ただ涼宮ハルヒは無意識的に超常的な力を発揮している設定なので、非日常的な冒険を欲しつつも何の力も持たないドン・キホーテの単純なアレゴリーにはならないかもしれません。立ち位置的にはむしろ、ドン・キホーテが憧れた騎士道小説の主人公的なポジションにいるのではないでしょうか。そうであれば、ハルヒに呆れつつも憧れを抱いているキョンは、サンチョ・パンサではなく、実はドン・キホーテその人だったのかもしれませんね。

一個の非日常的な理想があって、それを叶えるために理想を模倣しようとするが、結果的に失敗し滑稽な笑いが生じる。同じライトノベルで『ドン・キホーテ』的な構造を考えると、平坂読『僕は友達が少ない』などがそれに近いかなと思いました。あれは非日常的な理想(友達とのキラキラした学園生活)に憧れ、それを模倣する(コミュニケーションに難のある生徒が集まり部活を作る)が、結果的に失敗する(恋愛的なもつれが生じる)話だと思うので。


>『文豪ストレイドッグ』の元ネタは高橋源一郎だったのか…

こちらも面白い着眼点ですね。文豪のイメージの表層だけを切り取って、バトル漫画に組み入れるというコンセプトは、実は高橋源一郎的な試みであったという主張で一本批評が書けそうです。同じく文豪の表層的なイメージを切り取ったゲーム『文豪とアルケミスト』を比較対象として入れてみてもいいかも。



ご指摘に対する返信

>「言行一致」ではなく「言文一致」とかじゃないっけ…?

動画を視聴し直してみると、何度も言い間違えてしまっていました。「言文一致」が正解です。直前に出てきた「口語」というワードに引きずられて、「ゲンブン」と言いたいところを「ゲンコウ」と口走ってしまったのでしょうか? なんにせよ、失礼いたしました。


>激安ではなく驚安の殿堂では?

複数人からご指摘をいただいた部分でした。量販店「ドン.キホーテ」のキャッチフレーズは、確かに「激安」ではなく「驚安(きょうやす)」の殿堂ですね。素で勘違いしておりました、失礼いたしました。


>「源氏物語」が世界最古の長編小説って言われてると思うんですが

こちらも複数人の方からご指摘いただいていました。動画内で”近代”文学小説と強調したつもりだったのですが、まだ伝わりにくかったかもしれませんね…。言われてみれば、『源氏物語』に対する言及がゼロなのは不親切だったかもしれません。補足説明の「Ⅰ」を参照してみてください。


大江健三郎の写真:Kenzaburō Ōe at the conference of Paris Book Fair 2012.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Paris_-_Salon_du_livre_2012_-_Kenzabur%C5%8D_%C5%8Ce_-_003.jpg

サムネイル画像:ドンペンくん
(ドン.キホーテ公式サイトより)
引用元:https://www.donki.com/official-character/profile.php?pre=panel


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