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2021.2.19 sat 12回目の後悔

父の命日だったので、母をつれて墓参りに行ってきた。
ちょうど12年。姪っ子が受験生なので十三回忌は昨年済ませた。

父は真面目一徹なサラリーマンで、定年後も請われて勤め続け、やっと仕事から解放され母と気ままに旅行に行くんだ、と言っていた矢先に病を得た。

肺の病で、どんどん呼吸しづらくなる病気だった。初めの頃は携帯型酸素ボンベを持ち、鼻チューブで酸素を吸いながらなら出かけたりもしていたが、そのうち動くのもしんどくなっていった。
大学病院での入院生活はとても恵まれていた。高度医療に献身的なスタッフの皆さんのおかげで、父も前向きに治そうと頑張っていた。
クリスマスにいただいたカードには、スタッフや先生の寄せ書きがあった。父はそれをずいぶん大事そうに仕舞っていた。

とはいえ大学病院では長期療養入院ができず、転院することになった。

転院先の病院は、古く、暗く、人も足りず、
転院した初日、じゃあねと別れて帰宅した数時間後、父から「しおりちゃんよ、はらがへったよ」と携帯に電話がかかってきた。
申し送りがうまくいってなく、父への夕食は提供されなかった。
あわててうどんを買って行き、看護師さんにどういうことかと確認した。
そのあと、申し訳ございませんでした、と、山盛りの白飯と申し訳程度の冷たいおかずののったトレーが運ばれてきた。父は囚人ではない。

病気の進行のせいか、薬のせいか、環境の変化のせいか、父には少し譫妄があらわれていた。せっかく転院したらリハビリをがんばるんだと言っていたのに、それどころではなかった。頻繁に携帯に電話がかかり、「うちにかえりたい、むかえにきてくれんか」と何度もいった。その度になんと言ったのか、なだめたり叱ったりしたんだと思う。

ある夜、また携帯に電話がかかってきた。
「酸素がない、苦しい、助けてくれ」という。
あわてて車で駆けつけると、なぜか酸素ボンベの弁が硬く閉めてあり、力いっぱいねじっても開かなくなっていた。
あわててナースコールをしたのに、うんざりした表情の人がやってきてなにか言って帰っていった。おそらく父は、私に電話するより前に何度も何度もナースコールを鳴らしたんだろう。
なんでこんなことになっているのか。情けなさと怒りで頭が真っ白になりながら、車で実家に走った。
父が使っていた道具箱からでっかいヤットコを掴み取ると、驚く母に何も言わず病院に戻り、「なんでこんなにきつく閉めたのよ!!!」と怒鳴りながら力いっぱい酸素弁を開いた。父は申し訳なさそうに小さくなっていた。

ボンベの酸素残量が残り少なくなると父は不安がって、新しいボンベと代えてくれと何度もナースコールをしたようだ。しかし病院側としては使い切ってからの交換が原則だからととりあってくれなかった。この時酸素弁が素手で開かないほど閉められていたのは何故なのかはわからない。父がやったのかどうかは、わからない。

病院への不信感でいっぱいになり、やっと地域包括のケアマネージャーさんを紹介してもらい、相談にのってもらった。介護度も高く、様々なケアが可能だから、自宅に迎えて頑張りましょうと言ってくれた。自信がなかった母も納得し、介護用ベッドや手すりや、父を迎える準備を始めた。

しかしそのことを父に話しては、もう今から帰ると言い出しかねないので、帰る日が決まってから言おうね、と申し合わせた。

大学病院から出向されていた呼吸器科の先生はいい方で、自力呼吸が難しくなってきた父に、呼吸アシストマシーンを付けてくれた。空気の力で呼吸をサポートする最新鋭機器ですと説明をうけた父は、なんといってもメカ好き新し物好きなので喜んでいた。装着すると話せなくなるが、にっと笑ってサムアップしてみせた。兄と私は笑って手をふって病室を出た。

その日の夕方、母は鯛の煮付けを持って行ったんだそうだ。
「すごくよく食べてねぇ、美味しいって、食べ終わった後、こうして拝むんよ。やめてよ、って笑って帰ったのに」

その夜、12年前の今日の夜中2時頃、兄から電話があった。
「いま、お父さんが」
すぐに服を着て、寝ていた息子を車に載せて、病院へ駆けつけた。
同室の方は他の部屋に移ってくださっており、父はたったさっき息をひきとっていた。しーんと静かだった。

まだ暖かい父の不精髭をそった。電気シェーバーで。ちりちりじょりじょりという音がした。
これからのことを主治医の先生と婦長さんから説明をうけた。
明け方、父と一緒に実家に戻った。

なぜか、花を買わなきゃと思った。まだ花屋さんは開いてない。
駅に行き、キオスクみたいなところにあった花をありったけ買った。
菊や水仙や百合やチューリップや、それを枕元にばらばらにいけて飾った。

斎場からの帰り道は、もうすっかり春のようにのどかな青空だった。

四十九日の法要の日には、桜が満開だった。

もしあの時、もうすぐお父さんおうちに帰れるよ、と伝えていたら
もうちょっと頑張れたのかなぁ
あの頃息子は保育園、仕事もちょっと忙しく立て込んでいた
もう少し早く、ケアマネージャーさんとつながっていれたら
もっと自宅介護について調べたり勉強していれば

毎年そう考える。もし、ああしていたら、こうしていたら
後悔してもしかたないのに
呼吸が苦しくて、生きながらに溺れているような
そんな父に少しでも長く生きてと願うのも違っていたのか
いつまでがんばれと言えばよかったのか
今でもわからない。

墓には、花屋さんで買った花を供えた。
花屋さんは、選んだ菊や百合をきりっと整えて美しい立花にしてくれた。
母とは、あんまりその時のことを話したりしない。
お父さんよかったね、綺麗な花じゃね、と手を合わせて帰った。

忘れてることも多いけど、12年
どうしたらよかったのかわからないけど12年
もっとましな最後があったんじゃないかと
繰り返し思う12回目の命日だった。

人は思うように死ねない。
最善なんかわからない。
ただ傷は思い出すたびに生々しい。
だから、東日本大震災で、その後も何度も繰り返された天災で
思いもよらず断たれた命を思うと、もう言葉もない。
どうしたらよかったのか
これからどうすればよいのか
やっぱりわからず生きている。

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