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25歳の旅 猪苗代湖

フリーライターの吉野さんから与えられたというか無理強いされた仕事は、東北本線の名取駅より東福島駅まで各駅で降車して駅舎の写真を撮影し、硬券の入場券を買ってくることだった。名取は宮城県の南側にある駅で、そこから各駅で降車するとなると、かなり時間がかかるだろう。吉野さんから渡された各駅の作業表を見て「これは2日がかりだな」と思った。

父が故郷・猪苗代町の実家に住む従兄に連絡してくれたので、1泊目は従兄の孝夫さんが猪苗代湖畔で経営している「ドライブイン翁沢」に泊まることになった。

「ついでに挨拶してこい」と父は言った。僕たち家族はこの2年前まで福島県の郡山市という街に住んでいた。父は郡山で建設会社を興したが、経営の才能がなかったのか数年で倒産してしまった。倒産の後始末を猪苗代の叔父に手伝ってもらったらしいのだ。

出発の日、僕は24ミリレンズと標準レンズが付いたオリンパスOM1を2台と35-150ミリズームレンズにストロボが入った小さなカメラバックと着替えが入ったバックをたすき掛けにして、母に見送られながら朝早く神奈川の家を出て、まだ中央林間まで開通していなかった田園都市線に乗るためにつきみ野駅まで歩いて電車に乗った。

渋谷で銀座線に乗り換えて、上野駅で降車し、国鉄の上野駅から東北本線の急行電車に乗った。幸い電車は空いていて、カメラバックだけ持ってホームに出て駅弁とお茶を買った。知人のひとりは「駅弁の冷たい飯は食えない」と言っていたが、僕は「電車の車窓の移り変わる風景を眺めながら駅弁を食べるのが旅の醍醐味だ」と思っている。僕だけではなく、いまだに駅弁が全国の駅に残っているのは、多くの人が僕と同じ考えである証拠だと思う。

電車は、そろそろと上野駅を出発して、鶯谷や日暮里の軒の低い街並みを通過して、あっという間に川口、蕨と北上して行く。2年前まで群馬県にある私立大学の学生だったが、その頃に渋谷の屋根裏というライブハウスまで“カルメンマキ&OZ”を聴きに行ったことがある。そのとき、群馬から電車の乗って蕨あたりまで来ると、まだ埼玉であるはずなのに「ああ、東京だ」という空気感があった。故郷よりも長く暮らした神奈川、東京、千葉での年月を経た現在でも、その感覚は少しも変らない。僕は根っからの東北の田舎者なのだ。

大宮を過ぎた頃に駅弁を開いた。忘れてしまったが、多分、幕の内弁当だったと思う。冷たい白飯が喉につかえそうになって、むせたのだけは覚えている。慌てて少し冷めて生温かくなってしまったお茶を飲む。そのうちに電車が栃木県に入ると、周囲に山が多くなり、もう東北の匂いがする。

当時は携帯電話がないので車内での暇つぶしは本を読むしかない。僕は興味のある本しか読めないので、奇妙な本は沢山持っていたが、殆どが珍本蒐集のためであり、読書好きとは言えない。この時は光文社とか講談社の新書版推理小説を持って行ったと思う。当時はまだトラベルミステリーブームになっていなかった西村京太郎、齋藤栄、森村誠一などの本格推理小説が好きで、よく読んでいたからだ。この時は何を持って行ったのだろう? もう忘れてしまった。

当時は車内でタバコを吸っても良かったので、ハッカ煙草を何本も吸った。40才を過ぎた頃にきっぱりと禁煙してしまった僕は、今では喫煙する人を見ただけで咳き込んでしまうほどにタバコ嫌いになってしまった。若い頃は本当にバカなことをしたものだ。喫煙のせいか喉が弱くなり、炎症が起きやすい。高齢のせいかもしれないが、誤嚥も多く、咳き込むことが多い。

黒磯駅を過ぎると福島県はもう目と鼻の先だ。気の早い僕は脇に置いていたカメラバックと着替えバックをたすき掛けにして、いつでも降車できる準備を整えた。

電車が、2年前まで住んでいた郡山市に入ると、車窓から懐かしい街並みが見えた。涙が出そうになった。僕はこの街が好きだった。よく考えたら5年ほどしか住んでいないが、初めてレコードを買い、ギターを弾き、探偵小説を知り、隠れて原付バイクで未開通だった東北自動車道を走り、バイクで東北旅行をした青春の街だからだ。

郡山駅に到着すると、懐かしさで降車して街を歩きたい気持ちを抑えながらそのまま磐越西線に乗った。気動車は郡山を出ると田園の中を経て磐梯熱海温泉駅に到着する。そこから列車は山道を這い上がるように登っていく。中山宿駅では以降の勾配が急なためにスイッチバックで体勢を整えてから中山峠を越える。

戊辰戦争では中山峠も新政府軍が会津攻略のための重要な拠点だったが、新政府軍は中山峠の裏側に当たる母成峠に攻めてきたことで意表を突かれた。会津攻略のためにはいくつもの峠があり、攻め込まれる会津藩は、それぞれに兵力を分散させなければならないが、攻める方は斥候を放ち、その情報から守りの薄い峠を狙えばいい。初めから勝負はついている。

峠を越えると列車はゆるゆると山道を下って行く。進行方向の左右に拡がる緑の中を走って行くのは精神的な鎮静効果がある。上戸駅を過ぎると左側に猪苗代湖が見えてくる。高校時代にスピード違反で捕まった国道49号線も見えた。湖畔の湖水浴場のひとつ志田浜、続けて天神浜がある。夏や秋の観光シーズンには、湖水浴を楽しむ人たちで賑わう。ドライブしながら観光する人たちにとっては「二度と走りたくない」気持ちになるほど渋滞する地域である。

泉鏡花は天神浜湖水浴場までの途中にある小平潟天満宮に詣でた。鏡花の紀行文「日記の端」に書かれている。神社までの道すがら茶店のおばあさんとの面白い出会いが描かれている。

猪苗代駅に着いた。従兄が迎えに来てくれていた。

「よぐ来たな。疲っちゃべ」従兄は人なつこい笑顔で出迎えてくれた。彼はドラえもんのジャイアンに似ているが、頼りになる兄貴のような感じの好男子である。「うんにゃ、疲れてないよ。旅行は好きだから、かえって元気になった感じだよ。でも、久しぶりだね」

「にしゃは大学に行ってだがら、ながながこっちに来ねぇしな。まずドライブインに行くべ」

「うん」

駅前は相変わらず閑散としていて、左手のバスロータリーの向こうに磐梯山が見えた。清々しい空気に喫煙で汚れた気管と肺が浄化された気がする。従兄が運転する軽トラに乗って、しばらく走ると湖畔に出る。49号線に交わるT字路を右折してそのまま49号線に入ると野口英世生家記念館が見えてくる。

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*写真は父の実家がある猪苗代町翁沢地域


「神奈川はどうだ?」

「うん、父ちゃんは仕事に慣れたみたいだけどね、母ちゃんはどこに行っても元気だよ」

「そうが…妹は?」

「ああ、来年に駒沢卒業かな? 世田谷で下宿暮らししてたけど、今は一緒に住んで、家から大学に通ってるよ」

「ふーん」

従兄と話しているうちにドライブインに到着した。

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*猪苗代湖を疾走するモーターボート。運転は僕で、同乗者は甥である。


このドライブインは湖畔の崖の上に建っていて、そこから階段を降りると桟橋の両脇に観光用の手こぎボートを10艘ほど係留していた。桟橋には父が購入した小さなモーターボートも一緒に係留されていたので、高校時代の僕は無免許でモーターボートを運転して猪苗代湖を走り回ったものだった。しかし、父の会社が倒産して神奈川行が決まると、そのモーターボートは売却したと父から聞いていた。

車から降りて崖下を見ると、父のモーターボートだけでなく、ドライブインの観光用の手こぎボートもなくなっていた。

「ボートどうしたの?」

「最近は観光客も来ねぇがら、ボートは全然使われねぇし、管理が大変だがらやめちまったんだぁ。モーターボートは、にしゃの親父が誰がに売ってくれって言ったがら、売っちまったげど、大して金にならながったんだぞ」

「そうなの、ごめんね」

父は会社が倒産した際、叔父にモーターボートの後始末を頼んでから、逃げるように神奈川県に引っ越したのだ。当時の僕は群馬の私立大学生だったから倒産した経緯も金銭的な事情もまったくわかっていなかった。もしかしたら倒産した際の金銭的な補助を受けたのかもしれない。

父のおかげで、子どもの頃から何不自由なく暮らせてきた僕には、父の苦労など何一つわかっていなかったのだった。

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