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綾瀬新撰組

1.

慶応4年(1868)年3月13日(旧暦。14日説もある)、驟雨の中、五兵衛新田(今の東京都足立区綾瀬)の名主、金子左内の屋敷の門前に侍らしい男たち(48人)が現れた。一人は馬上におり、大きな口を面白くなさそうにへの字に結んでいる。小者らしい男が門を叩いて「旗本、大久保大和の一行である。門を開けてもらいたい」と叫んだ。

驚いて屋敷から出てきた男が門を開けると、何も言わずに男たちが屋敷内に入ってきた。金子左内の屋敷は周囲に堀をめぐらせ、宅地面積だけで3000坪もある。慌てふためく家人たちの眼前で、あっという間に70坪の母屋が隊士たちでいっぱいになり、金子家の米倉も彼らの手で勝手に開かれて、隊士たちは炊き出しを始めてしまった。

彼らの正体は、京都の倒幕テロリストたちを畏怖させた新撰組だった。大久保大和と名乗る男は局長の近藤勇である。

新撰組は薩長土肥軍に”占領”されるはずの江戸の街から江戸で集めた俄隊士たちを引き連れて北上していた。目的地は会津らしかった。この綾瀬では数日滞在して隊士募集をする計画だった。

2.

小菅の銭座で働いている次郎吉は、銭座から自宅がある五兵衛新田への帰り道、綾瀬川にかかる伊藤谷橋のたもとに大きな口をひん曲げて橋の欄干に両手をついてぼんやりと綾瀬川を眺めている男を見た。総髪を綺麗に束ねて髷を結った男の脇には屈強な武士が二人立っている。辺りは薄暗くなっている。逢魔が時である。

(あ、最近、金子様の屋敷にやって来た将軍さまの家来たちだ。それにしてもおっかねぇ顔してやがる)次郎吉はビクビクしながら男たちの後ろを通り過ぎようとすると、口の大きな男が声をかけてきた。

「あ、おいおい、こら小僧、おいおい」

(ちぇっ、俺のことかな?面倒だから聞こえないフリをしてやろう)

「おいこらおいおい、小僧、お前に言っているのだ」

「私でございますか?」

「お前以外、ここを歩く者はおらんではないか?」

「あ、それは失礼いたしました。で、何の用でございましょう?」

「うむ」と唸るとニヤリと笑う。初めの印象とは違って人の良さそうな笑顔だ。

「何でございましょう?」

「お前、街道の方からやって来ただろう?」街道とは水戸街道のことだ。

「へぇ」

「街道の向こうに何か怪しい者を見なかったか?」

「へぇ、何も見ませんでした」

「うむ、お前、水戸橋の化け物を見たことがあるか?」水戸橋とは伊藤谷橋に同じく綾瀬川に架かる橋のことで、伊藤谷橋から少し離れた水戸街道上にある。化け物とは水戸光圀が退治したという水戸橋に現れた化け物のことだ。大昔の話だ。

(この大口男、何を言っているのだろう?水戸橋の化け物など迷信じゃないか?)

「とんでもない、そんな恐ろしいもの見たことなどございませんよ」

「さようか、先ほど水戸橋に化け物が出たと新田の百姓が我々の屋敷にやってきたのだ」

「これは、伊藤谷橋でございますが」

「承知している。水戸橋には先に二人を調べに行かせておる。お前が水戸橋の方から歩いてきたので何か知っているのではないかと思ったのだ」

「はあ、私は銭座で働いている者です。銭座は水戸橋近くではありますが特に騒ぎはございませんでした」

「さようか」大口男は、顔だけ水戸橋の方を向けて残念そうに呟いた。

次郎吉はじれったくなり、「もう、失礼してもよろしいでしょうか?」と言うと、大口男は「うむ、よかろう。呼び止めて悪かったな」と言って水戸橋の方に頭を向けた。もう2人の武士たちはニヤニヤしながら次郎吉を見送っている。

次郎吉は、何度も侍たちの方を振り返りながら綾瀬川沿いに自宅への道を急いだ。すると、観音寺の方向から数人の侍たちが歩いてくる。薄汚い半着に袴を着た柄の悪そうな男たちだ。金子邸だけでは手狭だったことから、少し離れた観音寺の境内にも隊士たちを分宿させていた。

(あ、さっきの侍の仲間だ…柄が悪そうだ…)次郎吉は無意識に路地に逃げ込み、震えながら彼らが通り過ぎるのを待った。彼らの姿が見えなくなると、次郎吉は急ぎ足で綾瀬稲荷神社脇の自宅に戻った。この周辺の土地のほとんどは金子家のもので、次郎吉の家は金子家の田畑を耕していた。

「おとう、おっかねえものを見たぜ」

青い顔をして戻ってきた次郎吉は囲炉裏のそばで居眠りしている自分の父親に言った。

「何だ次郎吉か。遅かったな、化け物でも見たのか?」腰をさすりながら父親が目を開けた。

「化け物みてぇに口の大きな侍が伊藤谷橋の上にいたんだよ」

「化け物みてぇな侍?ああ、金子様の屋敷に大勢でやって来た奴らの仲間だろう」

「そうだと思う」

「あいつらは新撰組とかいう連中で、京で悪さをしたということだから近づくなよ」

「新撰組?」

「京都でたくさんの人を殺した危ない連中だそうだ」

「へぇ…」

あのお侍が人殺し…。次郎吉は、おっかない顔をしていたけど、気さくに話しかけてきた、あの男が人殺しだとは思えなかった。

*写真は綾瀬稲荷神社(足立区)

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