見出し画像

神仏を信ぜずとも祀るものあり

そもそも、ひねくれ者すね者の僕は、罰当たりな人間ですから、神や仏は信じません。それでも神社仏閣の雰囲気が好きで、神社や寺があると必ず手を合わせて参拝しちゃうのです。

神や仏を信じないくせに家には小型の仏壇と簡易神棚があります。寺社を一緒に祀ってはならぬなどと言われますが、そもそも神も仏も信じていないから、そんなことはどうでも良いのです。すべて自分流儀でよろしいのです。

僕は、「やむにやまれぬ理由があって、反乱蜂起して、結局は失敗しちゃう人」が好きです。平将門に藤原純友、平忠常って人たちが好きです。承平天慶の乱、長元の乱…いいですね。昔のことですから事の真相はわかりません。善悪に関しても不明です。人が死んじゃうのはイヤだけれど、時代に取り残された伝説や縁起の悪いもの…というのは浪漫があるのです。ただし勝者の伝承というのは大嫌いです。合理的な勝者に浪漫なんかあるはずがないんです。

僕は平将門由来の神田明神と平忠常由来の千葉神社と地元鎌ケ谷市の道野辺八幡宮を崇拝しています。氏神様です。実は道野辺八幡宮も平将門由来の神社です。将門が市川大野城を築城した際に、鬼門にあたる鎌ケ谷市中沢に中沢城を築城し、同地に道野辺八幡宮を創設したと言われます。

神棚には神宮大麻(中央)に道野辺八幡宮大麻(右)を差し置き、左に神田明神か千葉神社の大麻札を置きます。近年では神田明神までは遠いので、千葉神社の大麻札を置いています。

先日、田中一村展のために千葉市に出かけた際に千葉神社に立ち寄って、遅くなりましたが千葉神社大麻を頒布いただきました。

画像1

平忠常崇拝のために厄除けも方位除けも千葉神社で行いますが、今年は、かみさんが八方除けをしなければならないので、いち早く氏神様の道野辺八幡宮のお札を頒布いただきました。かみさんが立っている向こうに鳥居がありますが、この左右に狛犬ならぬ獅子像があります。

画像3

画像2

獅子が子獅子を千尋の谷に落とす姿のものと、這い上がろうとしている子獅子のものです。

画像4

本年も僕だけでなく、皆さんにとって良い年でありますように…。

妙見真言:ボチテイ トソタ アジャミタ ウトタ クキタ ハラチタ ヤビジャタ ウトタ クラチタ キマタ ソワカ

以下自分のための覚書

千葉神社の由緒より

平安時代の末期、関東南部を広範囲に統治していた平良文は、戦のたびに妙見菩薩(北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ)に祈願してその御加護をいただき、常に大勝利を収めていた。この良文を祖とする千葉氏は、一族の守護神として妙見菩薩を各地に祀り、代々信仰を捧げてきた。
千葉氏の三代目である平忠常の頃、千葉の地に祀られていた香取神社の境内:香取山(かんどりやま)の一画に、千葉氏によって妙見様の御分霊(=分身)を祀る祠が建てられた。

この祠に、眼の病気を患った第66代・一条天皇が眼病平癒の願を掛けたところ、即座に病が完治したことから、一条天皇は薄墨の御綸旨と「北斗山金剛授寺」という寺号を贈った。

忠常は、賜った貴い寺号に見合うようにと伽藍一切を整備し、次男・覚算を大僧正に就け、長保2年(西暦1000年)旧暦9月13日、「北斗山金剛授寺」を中興開山した。

千葉氏はその後、関東南部における勢力範囲を徐々に拡大し、千葉氏の七代目・常重の頃になると、関東地方の有力な豪族へと発展した。当時、一族の本拠地であった大椎城(現:若葉区大椎)が手狭になったことから、陸運・海運の要衝であった千葉の街へと移転することとなった。

大治元年(1126年)、千葉の街の中にあって攻め難く守り易い亥鼻山に亥鼻城(現:中央区亥鼻)を構え、恒久的な本拠地整備を行う。この移転に伴い、それまで惣領の住む城内で祀られていた妙見菩薩の御本霊(=御神体)を北斗山金剛授寺に遷し、以前から祀られていた御分霊と合祀してすることになった。

御本霊の遷座の翌年である大治2年(1127年)、妙見菩薩の御分霊をお神輿に乗せて亥鼻城の麓に向かう「妙見大祭」が始まり、それ以来一度も休むことなく現代に続いている。

千葉氏とも縁の深い源頼朝は、千葉神社に参詣し、自筆の願文・太刀・武具などを奉納して平家打倒を願い、ついに武運を開いた。

また日蓮上人が宗門弘通の誓願をたてて当社に参籠した際、有難い奇瑞をいただき「この妙見尊こそ、わが宗門の守護神である」と讃嘆され、誓願成就の後に自筆の細字法華経を奉納した。

徳川家康も千葉神社に深く崇敬の誠を捧げ、大久保岩見守に命じて祭祀の料田として永代二百石を寄進するとともに、将軍との謁見が許される格式(十万石の大名と同等)を授けた、以後、代々の徳川将軍家より神領・特権を許された。江戸時代には「千葉の妙見寺」「尊光院」などの通称でも呼ばれるようになりました。

以上のように千葉神社は、江戸時代まで真言宗の寺院だった。

幕末を経た明治2年(1869)、明治政府が発した「神仏分離令」により、当時曖昧であった神社と寺院の区分を明確に区別することとなった。僧侶・総代・氏子らの協議の末、妙見大祭の神輿渡御が神社の様式であったことから、数百年続く祭礼を継承すべく「千葉神社」と改称して神社となった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?