見出し画像

「彼女」

都会生活が嫌になって、流行の田舎暮らしをしてみようと関東近郊のC県の山奥に建つ古民家を買って住んでみた。その古民家は約100坪の土地付の100万円という値段だけあって、屋根以外、ほとんどがボロボロの荒ら屋だった。それを毎週末に通って少しずつ修理して、半年ほどで暮らせるようになった。

それでも実際に移住するまでは1年半ほどかかった。田舎暮らしには時間がかかる。まずは住居まわりの雑草を抜き、大量の砂利を敷き詰めた。さらに所有する土地の目印を兼ねて住居の周囲に丸太を打ち込み、丸太と丸太の間に板を釘打ちして塀を作った。住居前の10メートル四方を平らにならして丈夫な小屋を建てた。車庫ではない。仕事部屋を作ったのだ。仕事部屋と言っても無職のようなものだから、要は遊び部屋だ。

さらに周囲の住民との交流も重要になる。「田舎暮らしは近隣の住民と親しくなれるかどうかで決まる」と東北で田舎暮らしをしている大学時代の先輩の言葉だ。

先住者にとって、こちらは、まったくのよそ者であるから、それなりに親しくなる必要がある。決して嫌われてはならないのだ。

1年前から近隣の家を訪ねて「今度、こちらに引っ越してくる者ですが、暮らしに慣れるまでよろしくご指導お願いします」とペコペコ頭を下げて歩いた。断っておくが、僕は独身だ。家族はいない。親戚も…いるが、遙か遠い親戚でつきあいもない。つまり天涯孤独なのだ。そういう境遇の人間によくあるように僕は人づきあいが苦手だ。その僕が頭を下げるのだから、田舎暮らしは相当な決心なのだ。

この地域には20戸ほどの住居が建ち、その住人のほとんどが70歳以上の高齢者だ。人口は50人ほどで、若者は僕より先に移住している数人しかいない。そのため夜9時には、地域は真っ暗になってしまう。田舎の夜は恐ろしい。「遠野物語」のように田舎に数々の怪談や民話が生まれるのに納得ができる。

田舎暮らしを初めてすぐに身の回りで不思議なことが起きた。

僕の周りに黒いワンピースの女性が現れるようになった。身長は165センチくらいで、髪の毛は長く、前から見ると胸の下までの長さがある。その長い髪の毛で顔は見えない。あまりにも頻繁に見かけるので、はじめは近所に住んでいる女性なのかと考えていた。

朝夕の散歩にも彼女はどこかに現れる。彼女は何もしない。黙ってこちらを見て立っているだけだ。幸いにも家の中にまでは現れないが、自宅の外にも現れるようになった。窓の外には僕を見て立っている。数日経ってからやっと気づいた。どうやら彼女は幽霊のようだ。

幽霊といえば恐ろしいイメージだが、それほど怖くはない…いや、怖いときもある。こちらが油断しているときに突然現れたら、そりゃ怖い。びっくりする。彼女が家の中まで現れたらどうしよう?とも思う。

幽霊や妖怪は、こちらが家に招き入れることがなければ入ってこれないという。西洋の吸血鬼がそうだ。それは家を建てる際に地鎮祭を行なうからだというが、それは怪しい。神式と仏式の地鎮祭が西洋の妖怪に通じるはずはない。いや、西洋でもキリスト教の起工式を行なうようだが、そんなことで彼らを封じることができるのだろうか?

僕は「招き入れる行為」こそに意味があるのだと思う。現実を見れば、知らずに極悪人を家の中に招き入れれば、生きている限り不幸な目に遭うのと同じだ。つまり現実の人間も幽霊も妖怪も、それ相応の「悪」であるならばそれ相応の「犠牲」が出るのだ。

さて、幽霊であるかもしれない彼女のことだ。彼女は何のために僕のそばに現れるのだろう? 彼女が生きていた頃も見た目は同じだろうから、必死になって記憶の隅々を辿って彼女の姿を探してみるが、思いあたらないのだった。

1週間前のことだ。直接聞いてみようとして彼女に近づいて声をかけた。すると、こちらに顔を向けたまま宙を飛ぶようにスウッと離れていって消えてしまったのだ。一体何のために僕のそばに現れるのだろう?

声をかけたのがいけなかった。それ以降、彼女の姿を見なくなってしまった。彼女の姿が見えなくなってしまうと、僕の気持ちが揺れ動いて落ちつかないのだ。若い頃の恋のようだ。僕は幽霊に恋してしまったのだ。

こちらに気がないと寄ってくるが、こちらが好きになると相手は逃げてしまう。昔から恋とはそういうものだが、幽霊も同じだとは思わなかった。

それにしても、幽霊の女性にフラれるというのは、現実の女性にフラれるよりも何倍も悔しいのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?