妄想邪馬台国外伝「早良親王の怨霊」
「井上皇后、他戸皇子の謀殺」
第49代天皇は光仁天皇。前の天皇・称徳女帝(天武天皇の血筋)には跡継ぎがなかったために、本来では天皇になれる立場にないが、藤原一族が結束して強引に62歳という高齢で立太子させ、2ヶ月後に即位させた。これで天皇は天武系から天智系に還った。
藤原一族が光仁を推したのは、第45代天皇・聖武天皇の皇女・井上内親王を皇后とし、他戸(おさべ)皇子をもうけていたからだ。高齢の光仁のあとに他戸皇子を即位させて、一族の地位を盤石のものとしたかったからだ。しかし、藤原北家(藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。 藤原四家の一つ。 藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来)の永手(ながて)が死に、井上内親王と他戸皇子の後ろ盾がなくなった。
宝亀3年(772)井上皇后が天皇を呪詛したという疑いをかけられて、他戸皇太子ともども皇后、皇太子を廃されてしまった。
代わって皇太子になったのが山部親王(やまべのしんのう・桓武天皇)だった。藤原式家(藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称した)の良継の娘を妃としていることから、山部擁立のために井上皇后、他戸皇太子にあらぬ嫌疑をかけた謀略だと言われている。井上皇后と他戸皇太子は、ともに身分を庶人(平民)に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、775年4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に死亡した。不自然な死には暗殺説や自殺説もある。
その山部親王が第50代天皇・桓武天皇。平氏の始祖でもある。
「早良親王の怨霊」
天応元年(781)光仁天皇が風病(風の気にあたって発症すると言われていた病)と高齢を理由に退位し、山部親王(桓武天皇)に譲位した。さらに当時、出家していた山部の弟の早良親王を皇太子に立てた。
桓武天皇は、藤原乙牟漏(ふじわらおとむろ)を皇后に迎え。藤原旅子、坂上又子(さかのうえのまたこ)、藤原吉子(きつし)を夫人とした。乙牟漏との間には安殿親王(平城天皇)、神野親王(嵯峨天皇)が生まれ、藤原旅子との間には大伴親王(淳和天皇)が生まれた。
延暦4年(785)の深夜、桓武の寵臣で長岡京造営の中心人物だった藤原種継が暗殺される事件が起きる。
桓武天皇は長岡京への遷都を考えて種継に長岡京の造宮使を任せていた。しかし、種継の暗殺により、事件に関与した大伴継人、佐伯高成、多治比浜人、大伴真麿、大伴竹良らを斬刑。事前に暗殺計画を打ち明けられていたという早良親王も幽閉された。早良親王は幽閉中に絶食を続け、淡路島に流刑移送中に死んだ。
暗殺事件の首謀者とされた大伴家持は、既に一ヶ月前に死んでいたが、葬ることも許されなかった。一説では家持は陸奥国の多賀城で死んだとも言われており、事件とは無関係とも言われる。
天皇が藤原種継を信頼し、大伴氏の立場が弱くなったことから、種継を暗殺したと言われるが、真相はわからない。
早良親王が死んだあと、立太子した桓武の子・安殿皇太子(平城天皇)は病気がちになり、夫人の藤原旅子、生母の高野新笠、藤原乙牟漏が続けて死んだ。また、洪水や悪疫も流行した。桓武天皇は「早良親王の怨霊の仕業」と考えて、早良親王が葬られた淡路島の墓に勅使を送って、早良に「崇道天皇」を追号した。さらに早良の骸を大和国八島に改葬するなど鎮魂を繰り返した。
天皇家の血の歴史は、井上皇后、他戸皇子、早良親王に限ったことではない。神代からの兄弟間争い、天皇家最大の汚点とも言うべき武烈天皇の異常な残虐行為。そして蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺など、天皇を利用して権力を掌握しようとした物部、蘇我、大伴、藤原などの権力者たちによって血で血を洗う抗争を繰り返してきたのである。
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