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「千代姫の呪い」

幕末は徳川慶喜で始まり(将軍継嗣問題)、徳川慶喜で終わった(大政奉還から朝敵)と言っても過言ではありません。幕末という短い期間に、彼は260年も続いた徳川幕府を崩壊させてしまいました。

「幕末維新の美女紅涙録」(楠戸義昭・岩尾光代 共著)という本があります。

それによると、ペリー来航の前の嘉永元年(1848)に、水戸家から一橋家の当主として養子になったばかりの一橋慶喜と大納言一条忠香の娘・千代姫(のちに一条輝子)との縁組みが決まります。慶喜は数え年で12歳でした。一条家は五摂家のひとつという名家です。おまけに忠香は、当時の朝廷では有力者でした。のちに明治天皇の后となる昭憲皇太后も忠香の娘です。

しかし、千代姫が疱瘡に罹ったことで、慶喜との婚約が破談となります。そこで身代わりの正室として一条家では今出川三位中将実順の妹・延を、忠香の養女として改めて縁組みをしたいと幕府に申し入れるのです。それは、ペリー来航の直前のことでした。

2年後の安政2年(1855)10月2日、延は美賀と改名し輿入れとなります、京都を出発し、品川に到着間近というときに江戸を大地震が襲います。有名な安政の大地震です。建造物の倒壊による圧死に加えて、発生した火災によって、夥しい数の死者を出し、江戸城だけでなく諸藩の屋敷も大きな被害を受けました。もちろん一橋家の屋敷も壊れ、美賀の受け入れの延長を願い出ました。4日、美賀一行は品川から川崎に戻って宿泊し、翌5日に江戸城に入ります。地震後の江戸の街の惨状を見て驚いたことでしょうね。

江戸城も地震によって上を下への大騒ぎで、美賀にかまっている暇などなかったでしょうね。

さて、破談になった千代姫(一条輝子)はどうなったのでしょう。

維新後の徳川家には千代姫に関する以下のような話があったと伝えられます。

①破談になり、代わりに美賀が正室となった恨みから自殺した。
②美賀が子に恵まれなかったのは千代姫の祟り。
③徳川家では千代姫の位牌を祀っている。
④小日向(東京)の屋敷に千代姫の幽霊が出た。

しかし、それもただの噂話だということがわかります。千代姫(一条輝子)は、越前国の毫摂寺の僧である善慶の正室となっていたのです。

それから明治維新になり、明治13年(1880)の7月30日に「千代姫危篤」の報せが静岡の慶喜の元に届きます。翌日には「死去」の連絡が入り、慶喜が一条家に香典を送ったという記録があるそうです。また、慶喜家で長年侍女を務めた女性が「千代姫の位牌はなかった」と証言もしているそうです。

それでも…僕は、千代姫が自殺して悪霊となって慶喜を苦しめる…という話の方が好きですね。美賀が江戸輿入れの日に安政の大地震が発生したのだって、千代姫の祟りと考えた方が個人的にはしっくりとするのです。

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